Alone -1-


最初にその話が持ちかけられたとき、サンジは随分美味い話だなと思った。

――高校2年生男子、家庭教師募集(経験不問)時給3000円――

「3千円て、超高くね?」
ひとコマじゃなくて時給とある。

「まあな、けど最後の必須項目で大概引っ掛かるんだよ」
友人が指差す先を見ると「家事全般得意な方。時間延長有」とある。
「家事全般って言われっと、ちょっと引くよな。なんか家庭教師って言うより家政婦っぽくね?」
サンジは顎に手を当ててしばし考えた。
自慢ではないが、幼少時より家の事はすべて自分でやってきた経験がある。
ぶっちゃけ、家事全般得意だ。
「もしかして、俺向き?」
「じゃねーかと俺も思ってた」
「けど、高校生男子ってのがな〜」
「最大の難関がそこだよな。きょう日のコーコー生は可愛くねえぞ」
「女子高生のがいい!」
「女子コーセーでも一緒だって」
でもレディのが断然いいんだ!なんて友人に毒づきつつ、サンジはこのバイトを引き受けることに決めた。









住所を頼りに辿り着いたのは、閑静な住宅街の一戸建てだった。
ぐるりを頑丈な塀で囲まれた、門構えも厳めしい豪奢な洋館。
まさしく、屋敷と呼ぶにふさわしい風格だ。
「すっげー家」
時給の高さから言っても、かなりの資産家なのだろう。
ややちゅうちょしながらインターフォンを押す。
応対に出たのは、年配の女性だった。

「はい、お聞きしておりますよ。ゾロ坊ちゃまの先生でらっしゃいますね」
サンジは玄関で突っ立ったまま、思わず噴き出しそうになった。
ぼ、坊ちゃま・・・
今時、素で聞くとは思わなかった死語だ。
「どうぞお上がりになってください。奥様をお呼び致します」
奥様!うわ〜〜〜〜〜
坊ちゃまとはまた違うリアクションを内心で起こしてしまった、正直なサンジだ。



応接間に通されてケーキとコーヒーを前に、ちょこんとソファに腰掛けた。
うっかりすると深みに嵌るかのようにソファに身体が埋もれてしまう為、なんだか落ち着かない。
「お待たせいたしました」
軽いノックの音と共に入ってきたのは、まさに「奥様」の称号に相応しい美しいマダムだった。
自然、鼻の下が伸びそうになるのを気力で堪える。
「はじめまして、サンジと申します。F大の経営学部の2回生です」
「はじめまして」
おっとりと頭を垂れる仕種も気品に溢れ、身に纏う花の香りがサンジの鼻腔を擽った。
「息子は今年受験なんですの。もう志望校は決めてありますし、今から受験の追い込みという訳ではございませんのよ」
「はい」
「募集要項には目を通していただけたのかしら」
「はい、勿論です」
奥様の艶やかな唇に見とれながら、サンジはこくこくと頷いた。
「でしたら、例えばお料理なんかはお得意?」
「任せてください」
自慢ではないが、自分の料理の腕は趣味を超えていると自負しているのだ。
「ああよかった」
奥様は、盛り上がった胸の前で両手を合わせて顔をほころばせた。
大人の色香を漂わせつつ、どこか仕種があどけなくてまるで少女を思わせる。

「実はね、こちらのシゲさん。今までうちの家政婦をずっと勤めて下さっていたのだけれど、今度から勤務時間を短縮されることになったの」
「はい、実はうちの娘がそろそろお産するものですから・・・私にとっても初孫でして・・・」
「それはおめでとうございます」
和気藹々と言った雰囲気だ。
サンジは、男同士で話すときより女性ばかりの中にいる方が話が早い傾向にある。
「ですので、今までは夜9時までお勤めさせていただいていたのですが、それを夕方5時にまでに切り上げさせていただきたいのです」
「なるほど」
「そうしますと、坊ちゃまのお夕飯の支度などができませんで・・・」
「はあ」
「サンジさんには家庭教師も兼ねて、夕食の準備と後片付けをお願いできないかと思ってますの」
おっとりと口を挟まれて、サンジは惰性で頷きながらもきょとんとしてしまった。
―――えーと、つまり?
マジで家政婦(夫)?

「よろしいかしら」
「はい、勿論です」
実際家庭教師のバイトは初めてだし、募集要項にも「未経験者不問」とあったのはそれがメインという訳ではないからだろう。
なら、得意分野の家事で腕を揮えるならサンジとしてもありがたい。

不意にシゲさんがピンと背筋を伸ばして顔を上げた。
「坊ちゃまのお帰りです」
家の中とは言え玄関からかなり離れた位置でも、ドアの開く音は聞き分けたらしい。
いそいそと部屋を出るシゲさんの小さな背中を見送って、サンジは改めてソファに沈みかかる腰を浮かせた。
「それで、息子さんは高校3年生なんですよね」
「ええ、丁度帰ってきたみたいですわね」
奥様の視線が重厚なドアの向こうに移される。
つられるように横を向いたら、ガチャリと真鍮のドアノブが動いた。
「失礼します」
顔を覗かせたのは特にデブでも貧弱でもない、むしろがっちりした体格の男子校生だった。
鮮やかな緑の髪を短く刈り、銀縁のメガネを掛けている。
濃紺の制服は有名な進学校のもので、そちらの方がサンジには脅威だった。
―――こんな奴に、俺が勉強教えられる訳がねえ

「はじめまして。ゾロと言います」
真っ直ぐに歩み寄り、挨拶をされてサンジは慌てて立ち上がった。
身長は同じくらいか。
流麗な眉に切れ長の瞳、端正な顔立ちだ。
身に纏う雰囲気が静か過ぎて、年齢より大人びて見える。

「はじめまして、サンジだ。君の勉強と食生活を託されたみたいで・・・」
思わず口をついて出た軽口に、ゾロが表情を和ませる。
「先生なら安心です。よろしくお願いします」
先生、と呼ばれてしまった。
今更ながら胸がときめいてしまう。
俺って先生?
こいつ高校生だけど、中々可愛い奴じゃねえか。

「それじゃ、シゲさんはサンジさんに引き継ぎなすってくださいね」
「かしこまりました」
奥様はふわりと花の香りを漂わせると、軽やかに立ち上がり応接室から出て行った。
ゾロも一礼してその後に続く。
「奥様は今からお出掛けです。坊ちゃまがお着替えをなさる間に、水回りの説明をいたしましょう」
シゲさんに促されて、サンジは慌てて立ち上がった。
手付かずのコーヒーとケーキが気になったが、どうせ後で片付けるのは自分だと納得する。






サンジの住むアパートの、3部屋まとめてもまだ足りないくらいの広さのキッチンは、綺麗に磨き上げられて新品のようだった。
実際、使う面積はあまりないのだろう。
シゲさんは几帳面な性質で、収納はきちんとしており掃除も行き届いている。
だが準備されていた夕食はレトルトのハンバーグと惣菜パックに入ったサラダで、調理の方に力を入れているとは思えない。

「大体、お分かりになりましたでしょうか。冷蔵庫には大抵入っておりますし、もし不足分があれば私に言ってください。すぐに注文いたしますので」
買い物もすべて代行に任せているらしい。
基本的に「奥様」は台所には立たず、すべてを仕切っているのがシゲさん一人だったら、シゲさんの勤務時間短縮は痛いことだろう。
「家庭教師というより、家政婦の仕事の方が負担が大きいですからね。サンジ先生にあまり長くお願いするわけには行かないと奥様も仰ってでした。私の代わりが見付かれば一番いいんですけど・・・今時住み込みのお手伝いというのもなかなか・・・」
「住み込み・・・そうですね」
家事全般が任されているなら、その方が効率的かもしれない。
「それじゃ、いらして早々なんですが、私はそろそろ・・・」
「あ、はい。後は任せてください」
お疲れ様でしたと声を掛ければ、シゲさんは満面の笑顔でいそいそと帰り支度を始めた。
なんせ初孫なのだ。
嬉しくて仕方ないだろう。

シゲさんを見送ってから、サンジは改めてキッチンに戻ると腕を組んだ。
―――さて、こっからは俺の好きやってもいいんだよな。






まるでどこかのホールのような大きく曲線を描いた階段を昇り、「坊ちゃま」の部屋に赴く。
片手にトレイを掲げて軽くノックをすれば、静かな声で応えがあった。
「失礼します」
執事にでもなった気分で、背筋を伸ばしながら部屋に入った。
広さはあるが家具のあまり置いてない、シンプルな部屋。
キングサイズのベッドがどんと置かれ、勉強机と書棚が作り付けられている。
子どもの勉強部屋にしては、やたらとベッドばかりが目に付く部屋だ。

ゾロは回転椅子をくるりと回して、手にシャーペンを持ったまま振り向いた。
「ありがとうございます、先生」
またしても先生と呼ばれ、うっかりにやけそうになる顔を引き締めた。
「おやつですよ、坊ちゃま」
途端、ゾロが嫌そうに顔を顰める。
「勘弁してください。ゾロでいいです」
いかにも辟易していると言った感じが、気さくで子どもっぽい。
気高そうな奥様も、忠義っぽいお手伝いさんにもやや臆していたサンジは、ほっと気を緩めた。

「なんだか先生にも申し訳ないですね。中途半端な形になってしまって」
ゾロはトレイを受け取るとベッドサイドに置き、両手を合わせてサンジに向き直る。
「先生は家庭教師であるはずなのに、俺の世話もしてくださる家政婦さんの代わりにもなってしまう。ちょっと、立場が微妙でしょ」
「まあな」
先生だからと踏ん反り返っている訳にも行かないし、かといって坊ちゃま大事で尽くす訳にもいかない。
まあどちらの態度も取るつもりは無いが。
「さしあたっての問題は俺の夕食だけなんです。別に、帰りにコンビニで弁当買って帰れば済む話なんですが・・・」
「ちょ、そりゃないぜ」
思わず声を荒げた。
「お前みたいにガタイのいい高校生がコンビニ弁当なんてとんでもねえ。ちゃんと栄養バランスの取れた食事をしなきゃ、ろくな大人になれねえぞ」
つい興奮していつもの口調で捲くし立てたが、ゾロは素直に頷いている。
「そうですね、そんな風に考えてくださるとありがたいです」
そう言いながら手渡したのは、成績表とテスト用紙だ。
「一応そんな感じなんで、勉強の方は適当でいいです」
不遜な物言いだが、サンジはざっと目を通して眩暈を起こしそうになった。
―――こんなん、俺の出る幕ねえ・・・
「俺、やっぱ最初から家政婦としてバイトした方がいいんじゃねえの」
「求人要項はそこじゃなかったですけどね、結果的に先生が来て下さって良かった」
満足そうに頷くゾロは、それほど頓着していないようだ。
サンジとしても、得意分野の料理で腕を揮えるのは願っても無い。
「うし、んじゃ勉強は適当にやるから飯は任せてくれよ」
「期待してます」
にこにこ笑うゾロの頭を、ガシガシと乱暴に撫でた。
若草色の髪は思ったより柔らかく、子どもっぽさを感じさせる。
こいつのために、できるだけのことをやろう。
原則、男には優しくしないサンジだが、こいつだけは例外だと思えた。





シゲさんが用意してくれたハンバーグとサラダとは別に、冷蔵庫にあった野菜を適当に使ってスープを作った。
残った野菜クズを使ってきんぴらも作る。
坊ちゃまの好みは知らないが、成長期だから割となんでも食べるだろう。

階段下から「飯だぞ〜」と叫べば、すぐにゾロが部屋から出てくる。
「すみません」
一応先生だからか、恐縮しながら頭を下げている。
それはそれで気分がいいような面映いような複雑な感じで、サンジはお玉を持ったまま腕を組んで「おう」と応えた。

「好みはどうか知らないけどよ、シゲさんが用意してくれたから大丈夫だと思うぜ」
「美味そうだ」
ゾロは食卓に着くと、行儀良く手を合わせて箸を取った。
先ずきんぴらを摘まみ、「美味い」と呟く。
「そうかそうか、美味いか」
きんぴらから来るとは思ってなかったから、サンジは上機嫌でゾロの横に腰掛けた。
咥えていた煙草に気がついて、慌てて灰皿に押し潰す。
「お、食事中に悪いな」
「いえ、気にしないでください」
ゾロはそう言いながらも旺盛な食欲で次々と皿を平らげていく。

一人で黙々と食事する高校生と、それを見ている自分。
なんとなく、変な感じだ。
「いっつもこうなのか?一人で食事すんのに、慣れてる?」
「そうですね」
口端についたご飯粒を指の節で拭って食べながら、ゾロは困ったように笑った。
「誰かと一緒に食べる方が、なんか慣れないです。合宿とか旅行とか、学校でしか経験ないですね」
「・・・そうなのか」
それじゃあ、あの綺麗な奥様はいつも外出してるとでも言うのだろうか。
「あのな、立ち入ったこと聞いて悪いけど、お父さんは?」
「父は海外勤務です。年に2回くらいしか帰ってきませんね」
「先ほどの、綺麗なお母様は?」
「大変趣味の多い人なので、毎晩忙しく出歩いてます」
こともなげにそういうと、空の茶碗を差し出した。
「お代わり、お願いできますか」
「ああ、勿論」
サンジは炊飯器の蓋を開けて、大盛りにしてやった。
「さっきのきんぴらみたいなの、あれはもうないですか?」
「ああ、あれだけだったんだ。気に入ったか?」
「ええ、すごく」
「そっか、んじゃ今度はもっとたくさん作ってやるよ。他に、好きなものあるか?」
サンジの問いに、ゾロはぱちくりと目を瞬かせた。
「・・・どうした?」
差し出したご飯を両手で受け取り、照れたように目を伏せる。
「いえ、好きなものとか聞かれたの、初めてだから」
「ええっ?」
「出されるものはなんだって食いますからね。作ってもらえるだけで、ありがたいです」

サンジの胸が、がーっと熱くなってしまった。
なんて、なんて奥ゆかしい高校生なんだ。
日頃目にする、図体ばかりでかくて性根が腐っててだらけた態度ばかり取るくせに、一人で大きくなったような顔をしている生意気な奴らとは全然違う。
こんな広い屋敷に住んでる金持ちの坊ちゃんなのに、なんて不憫で慎ましいのか。

「馬鹿野郎、俺にならなんでも言え。お前は今が一番大事な成長期なんだから、なんでも食って身体作ってかなきゃなんねんだ」
うっかり涙ぐみながらも、サンジははたと気付いた。
「・・・お前、朝御飯どうしてるんだ?」
シゲさんは通いの家政婦さんだったが、出勤時間は早朝なのだろうか。
「朝食は食べません。母はいつも昼過ぎまで寝ていますから、俺は学校に間に合うように家を出るだけです」
「・・・あんだとお?!」
またしても眩暈を覚えた。
「朝食は一日の要だぞ?それを抜くなんて・・・腹減って授業どころじゃないだろうがっ」
「特に支障はありませんが・・・」
平然と言い放つゾロに、サンジは頭を抱えてしまった。
今時珍しい、礼儀正しく常識を兼ね備えた立派な高校生だって言うのに、なんて貧しい食生活を送っているのだろう。

額に手を当てて唸っているサンジに、ゾロは申し分けなさそうに首を竦めた。
「先生に心配していただけるのはありがたいですが、子どもの頃からそういうのには慣れっこです。大丈夫ですよ」

不憫だ、あまりにも不憫だ。
だが、自分は単なる家庭教師兼臨時夕食係。
それ以上踏み込むこともできず、せめて夕食だけは腹いっぱい食わせてやろうと決意を新たにするサンジだった。



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