Albireo 13



綺麗に手入れされているとは言えない、ただっ広い庭には鬱蒼と木立が生い茂り、昼間の強い陽射しを遮っていた。
足元に転々と揺れる木漏れ日を踏みしめながら、サンジ達は黙ってペデスの後に続く。

屋敷の後ろにある庭は、岬へと続いている。
中途半端に茂った植木の奥に、そこだけ意識して植えられたのか色とりどりのバラの花が咲く円形のアーチがあった。
その向こうに白い墓。
そしてその後ろには広大な海が広がっている。
小さなクロスが刻まれただけで墓碑銘もない。

「私は、この人の名前すら知らないままなのです。」
ペデスは跪き祈りを捧げると、シャベルで墓の下を掘り出した。
そう深くないところから小さな箱が出てくる。
さらにその中からも箱が取り出され、その中にさらに小さな石の箱が納められていた。

全員の眼がペデスの手元に集中する。
慎重な手つきで蓋を開け、その中身をサンジに示して見せた。
「これが、あなたの『眼』です。」
白い絹に包まれた小さな蒼。
白目部分に細かな毛細血管までリアルに描いてある、けれどあきらかに子供用の小さな義眼だ。

「これを・・・」
サンジは戸惑った。
受け取ってもどうしていいのかわからない。

「その眼をつけたとき、呪いは成就するのかしら。」
ロビンの言葉にペデスは頷いた。
「恐らく。この方が完全に元に戻るとはそういうことです。この義眼もサイズは小さいけれど、もしかしたら嵌めればそれ相応の大きさになるのかもしれない。」
「ってことは!キーワードが読めるのね!」
ナミが勢い込んで訊ねた。
ロビンは呆れたように眉を下げて見せる。
「まったくこの子は・・・でも恐らくは、見えるでしょうね。」

母親が望んだのは子供の生還と王国の復活だ。
義眼を嵌めてキーワードが読めれば、或いは採掘現場を再開させ、富を得ることができるかもしれない。
「サンジ君、嵌めてみなさい。」
断固とした口調でナミが叫ぶ。
「お母さんの望みも叶うのよ。あなたはそれで、完全に元の自分に戻れるんだわ。」
「早まらないで、航海士さん。コックさんにキーワードを言わせるための罠かもしれない。」
はっとしてペデスを見る。
今、庭にはルフィ達以外、兵士や使用人達の姿はない。
「呪詛が成就した暁には、恐らく皆さんの力も元に戻ります。」
ペデスは穏やかに言った。
「ここで私があなた方を包囲してキーワードを手に入れたとしても、あなた方には敵わないでしょう。ただ私の望みは一つだけ。」
ペデスは哀しげに墓を見下ろした。
「ここで眠るこの人に、息子を返してあげたい。ただそれだけです。」


サンジは義眼を手にしながら同じように墓を見た。
この下に自分の母親が眠っていると言われても、正直ピンと来ない。
幼い頃から愛され叱られ、育てられてきたのは、日本に住む母ただ1人だ。

それでも―――
我が子を崖から突き落としてでも守りたかった誇りと希望を叶えてやりたいとも思う。
今まさにこの瞬間を、冷たい土の下でずっと待ちつづけていたに違いない。

サンジは掌の小さな眼球を見た。
きょろりと蒼い眼をこちらに向けている、グロテスクな作り物。
これを、左眼に嵌めれば・・・
元に戻る。
全てが戻る。
ルフィやロビンは能力を取り戻し、チョッパーはヒト化して話せるようになる。
そして俺は―――

「待って、コックさん。」
ロビンがどこか悲痛な声で叫んだ。

「よく考えて頂戴。私達は悪魔の実の能力者として元に戻る。でも二重に呪詛の掛けられたあなたは・・・本当に戻ってしまうのよ。」
ナミの顔色が変わった。
ウソップはロビンとサンジの顔を交互に見比べて、ルフィは首を傾げている。
「本当のあなた。つまりあなた自身がこっちで生きていくことになるの。」
「ああ?」
がぼんとウソップが口を開けた。
「ちょ、ちょっと待て、ってことは・・・サンジは帰ってこないのか?」
「元に戻るのよ。あのサンジ君はあっちで、このサンジくんは、このまま・・・」
ナミはそれきり言葉をなくした。


誰も、何一つ話すことができない。
沈黙したクルー達の間で、波の音だけが響く。

――――俺が、ここで・・・
サンジは雷に打たれたように動けなかった。

このまま、こっちで。
海賊コックとして生きる。
唐突に、畏れに似た震えを感じた。
こんな、法律も秩序も機能していないような無法な世界で。
理屈も常識も通じないような過酷な世界で俺は生きていけるのか。
海賊として、敵を倒して、時に傷付け、その命を奪いながら生きていけるのか。

それでも――――
ココロのどこかが喜んでいる。

ゾロの側に
―――――このまま側に

ゾロの、側に・・・


掌の眼がじっと見ている。
希望を託して死んだ母。
待ち続けていたペデス。
力を取り戻す能力者。
なにもかもが、元に戻る。


サンジはぎゅっと義眼を握って顔を上げた。
ゆっくりと首を巡らし、ゾロを探す。

皆口を一文字に引き結び、ただサンジを見ている。
誰も何も言うことはできない。
これはサンジが決めること。
そしてゾロもまた。
ただ黙って目を閉じていた。
僅かに眉間に皺を寄せて動かないその姿は、祈る形にも見えて、サンジはすぐに視線を逸らした。

最初に決めたはずだ。
ゾロに、サンジを返してあげるって――――



大きく振りかぶり投げた義眼は、陽光を跳ね返し煌めきながら海に落ちた。


「・・・サンジ君・・・」

サンジは暫く海を眺めると、くるりと振り返り
「さ、夢物語はこれでおしまいだ。ナミさん、ログが溜まるまで、ゆっくりさせてもらおうよ。」

そう言って、笑った。





何ら変わることはなく、時は過ぎた。
商戦や海賊船、海軍船。色んな船が寄港し、港は活気付いている。
相変わらず賞金稼ぎが街にひしめき、能力者たちは不自由な生活を余儀なくされているようだ。
GM号の一行は領主の庇護を受けてのんびりと過ごした。
サンジは主にウソップやナミからバラティエからアーロンパーク、リトルガーデンにドラム王国アラバスタ、空の島まで色んな冒険譚を聞かせてもらった。
時に大笑いし、時にハラハラしながら夢中になった。

島のあちこちに出歩いてルフィと一緒に冒険した。
庭を綺麗に整備して、花を摘んでは墓に飾った。
時間を惜しむかのように、みんなと色んな話をした。

けれど、ゾロと肌を合わせることは、二度となかった。



よく晴れた空の下、麦藁のジョリーロジャーが誇らしげに帆を上げる。
「うーん、風向きも絶好v船出日和ね。」
海の輝きに目を細め、サンジは煙草を咥えながら見送りに来てくれたペデスに振り返る。
「世話になって、ありがとうございました」
きちんと頭を下げると大仰に手を振って後ずさった。
「礼を言いたいのはこちらの方だ。許してくれて、ありがとう。」
細い目をさらに細めて、感慨深げに空を見上げる。
「もう二度と会うこともないだろうが、あんた方の幸運を祈っているよ。」
「ありがとう領主さん。」
「どうぞお幸せに。」

丘の上から村人達が手を振っている。
陽気な宿の主人夫婦も、伸び上がってちぎれそうなほど手を振っていた。


「なーんか、おもしれー島だったなあ。」
羊頭の真上に乗って、ルフィはもう海の彼方を見つめている。
「あんたには新鮮だったでしょ。なんせ普通の人間で2週間も暮らしたんだから。」
「私もよ。なにかと不便だったけど、なんだか懐かしかったわ。」
「俺あ久しぶりにゆっくりできた島だったな。」
「あたしはなんだか疲れたわよ。」

ルフィは麦藁帽子を抑えながらナミに振り返った。
「なあ、俺らが元に戻るのはどんくらいだあ?」
「そうね、多分夕方頃だと思うけど・・・風向きが変わると夜になるかも。」
なんでもない風に応えながら、漂う空気は少しぴりぴりしている。
ルフィ達が元に戻るということは、サンジが帰るということ。

「お別れ会、しようぜ。」
船長がにまっと笑う。
「あんたが食べたいだけでしょが。」
「いや、俺もそのつもりで結構多めに買っちゃったし、最後に腕を奮うよ。」
サンジはノートを片手に腕まくりしながらキッチンに消えた。





午後から凪に入り、船はゆっくりと進んでいく。

鮮やかな夕焼けを肴に始まった宴会は降るような星空の下、今も続いている。
「あ〜、見たかったな〜、ルフィの伸びる腕〜」
酔っ払ったサンジは上機嫌でルフィの腕を首に巻いてみた。
「にししっ、関節が痛えぞサンジ!。」
「ほんとにお見せしたかったわね。私の腕たちを」
「怖いぞ〜、夢に見るぞう〜」
ウソップはうひゃひゃと笑い、甲板に引っくり返った。
「チョッパーは残念がるわ。サンジ君とお話したかったでしょう。」
結局最初から最後までチョッパーはトナカイのままだった。
「俺も残念ら〜・・・お前ほんとに喋れんのか〜」
チョッパーの首に齧りついて懐くと、蹄を鳴らして甲板の隅っこまで逃げていってしまった。

サンジは覚束ない足取りで酔っ払いの間をすり抜け、マストを登った。
度々落ちそうになりながらも何とか見張り台によじ登る。
マストに凭れ、胡座をかいてゾロは一人酒を飲んでいる。
「こら」
危うい呂律のままサンジは笑ってその前に立つ。
「お前はー、俺にお別れ言ってくれねえの。」
ゾロはごくりと喉を鳴らして酒を飲み下すと、苦々しげに顔を顰める。
「相変わらず、素直じゃねーのな。」
仏頂面のまま口を閉ざすゾロの前にしゃがんで、サンジは投げ出された手を掴んだ。
両方の手と手を繋ぐ。
ゾロはただ黙って、サンジがするように任せた。
「なあゾロ。俺が帰って、サンジが戻っても、この手を離すなよ。」
剣ダコだらけの、ささくれた分厚い手をぎゅっと握る。
「想ってることはちゃんと伝えろ。ぜってーサンジ、てめえに惚れてるよ。」
一人、くすりと笑いを漏らした。
「俺が・・・惚れちゃったくれーだから、ぜってー・・・間違いねえ。」
笑いの形の口元がかすかに歪み、噛み締めた白い歯が覗く。
「ぜってー、ぜってー・・・間違えんな。」
「サンジ。」
ゾロは名を呼び、引き寄せて抱きしめた。
細い肩が一瞬強張り、おずおずと両手が背中に廻る。

「クソコックは、いつか消えると思ってた。」
「・・・ゾロ?」
「俺らの目指す夢は違う。道も違う。いつか別れて離れるものなら、最初から手に入れたくはなかった。」
サンジはぎゅっとゾロを抱く手に力を込めて肩越しに凭れかかった。
「アホだなてめえ。なにらしくねえこと言ってやがる。手放したくねえなら、離すな。ずっと掴んでろ。俺が許す。」
涙が溢れそうになって空を見上げた。
降るような星空の中で、一際輝く星がある。
「ゾロ、今真上に見える星は、俺らのとこでも見える星だ。」
「星?」
「ああ、オレンジと青の綺麗な色で光ってる。」
ゾロのつんつんした短い襟足を掴んで上向かせた。
「なあ、俺らみたいだろ。あの星は、あっちでもこっちでも並んで光ってんだ。いつまでも。」
サンジにはもう星は見えなかった。
ぼやけた視界の隅で、ゾロが身動ぎして頭を動かしている。

「なあゾロ、だからこの手を・・・」

離すな―――――

突然空が反転してサンジの意識は急激に遠退いた。



目覚めれば柔らかなベッドの感触。
さっきから響く歌は、ゾロからの着歌だ。
目が覚めて、それから身体を動かしてサンジはゆっくりと身を起こした。
電気を付けない薄暗がりの中で、机の上の携帯が鮮やかな光を放っている。
長い長いフレーズを何度も繰り返しても、サンジは手を伸ばそうとはしなかった。
今はただ、ゾロに会いたくない。
あまりに唐突に放り出されて、感情がついていかない。
全てが夢だったと笑い飛ばすには時間がかかる。

随分と長い間歌って、鳴り止んだ。
再び訪れた静寂にほっと息をつく。
あれからどれくらい時間が経っているんだろう。
こっちで俺は、どうしてたんだろう。
気になる事はたくさんあるけど、今はただ眠りたかった。
まだ腕に残るゾロの感触を抱いて目を閉じていたかった。
なのに――――

ガンガンと、乱暴に誰かが部屋の戸を叩く。
次いで届いた声に、サンジは耳を塞ぎたくなった。
「サンジ、いるんだろ。」
間違えようもないゾロの声。
同じなのに違う、ゾロの声。
サンジは頭からシーツを被って蹲った。
「・・・俺、今具合悪いからっ」
必死で声を絞り出す。
「会いたくね、帰れ。」
こんな言い方では却って心配をかけるだけかもしれない。
けど、必要以上に話したくない。
なのに・・・
しばし沈黙があったと思ったら、ばきっと鈍い破壊音がした。
驚いて顔を上げると無理矢理鍵を抉じ開けてゾロが入ってくる。
「な、な、なにしてくれんだ、この野郎!」
この馬鹿力っていうか、ゾロってこんな奴だったか?
こんな、ヒトのことお構いなしにずかずか乗り込んでくるような
こんな――――
驚いて見上げるサンジのシーツを剥ぎ取って、手を掴んで乱暴に引っ張った。
「なんだよ!」
抗議するサンジに応えず、ほとんど横抱きに抱えるようにしてゾロは階段を下りる。
足が縺れて共倒れになりそうで、サンジは仕方なく一緒に飛び降りた。

「あらあらゾロ君。どうしたの。」
「悪いおばさん、サンジ借ります!」
呑気な母の声すら懐かしい。
けどサンジのそんな気持ちにお構いなしに、ゾロは外に飛び出すと玄関先に置いてあった自転車にサンジを押し付けた。
「ゾロ・・・」
「乗れ」
ひどく怒ったような顔でゾロがえらそうに言う。
久しぶりに見たゾロの顔は覚えていたよりずっと大人びて見えた。
「乗れって、靴・・・」
「いいから」
強引に座らされてゾロは自転車を漕ぎ出した。
放置自転車をそのまま持って帰って使っている、ゾロ愛用のママチャリだ。
力に任せてガシガシ漕いで、住宅地から丘へ向かう坂を登る。

とうに日が暮れたらしい街中はあちこち街灯がついて西の空に僅かに赤味が残るだけだ。
サンジは仕方なく風を切ってガンガン進むゾロの背中にしがみ付いた。
馴染んでいた身体より一回り小さくて、でも懐かしい匂いがする。

ああゾロだ。
ゾロの背中だ。
なぜだかぶわっと涙が込み上げてきた。
なんか泣ける。
ひどく泣ける。
もうゾロはいないのに。
大好きな、ゾロじゃねえのに―――

サンジはゾロの背中に顔を埋めて鼻を啜った。
薄いTシャツ1枚で直に肌に感触が伝わるだろうに、ゾロは何も言わず前だけ見てペダルを漕ぎ続ける。
サンジはそれをいいことに、ずっと背中に顔を埋めて声を殺して泣いていた。


ふと自転車が止まり、車体が傾いてゾロはが降り立ったのが気配でわかった。
まだ顔を上げられなくて、不自然に額をくっつけたままサンジも地面に足をつく。
「街ん中は明るくて、ちゃんと見れねえから。」
ゾロは独り言みたいに呟いた。
「星に興味はねえって言ってたけどよ。それでも見せてえって思ったから、約束したんだ。」
サンジはごしりとシャツに目元を擦りつけて、顔を上げた。
「乱暴でがさつで、クソ生意気だったけど、見せてやりてえって、思ったんだ。」
ゾロはまっすぐ前を見て、眼下に広がる夜景を眺めている。
地上の星があまりに眩しすぎて、暗い丘の上の公園からですら、夜空の星はかすんでしまう。

「あのよ・・・」
サンジはつっかえながら言葉を紡いだ。
「星の話、・・・俺も、したぜ。多分今ごろ・・・見てんじゃねえかな。」

そうだといい。
きっとそうだ。

ゾロはゆっくりとサンジに振り向き、その顔を見た。


「おかえり」

「ただいま」


それ以上言葉はなく、二人並んで突っ立って空を見上げた。


暗い夜空に鈍く瞬く星々の中に、確かにあの星がある。
俺が実は王子だったり
びよんと手足が伸びるゴム人間がいたり
オレンジの髪を靡かせて、果敢に戦う美少女がいたり、
ありえないほど長い鼻をした心優しい友人がいたり
腕をいくつも花のように咲かせられる美女がいたり
トナカイなのに優秀な医者がいたり

三本の刀を操って世界一の剣豪を目指すゾロがいたりして
そして隣には、一流の海のコックサンジがいるのだ


夢じゃなくても

夢であっても

確かにあの星は、今も光っているのだ


END

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