秋茜


道の真ん中に、実に美味そうな握り飯が落ちていた。
否、置いてあった。
轍の中程、柔らかそうな草の上。
竹の皮を敷いた上に、やや大きめの握り飯が三つ。
まだホカホカと湯気を立てていて、よく見れば米の一粒一粒が艶々として実に美味そうだ。
三つそれぞれ具が違うらしく、高菜を混ぜたものやら胡麻を振ったものやら海苔を巻いたものやら。
どれも魅力的で、一時に食べてしまいたいようなゆっくり味わいたいような、ぜい沢な悩みを引き出してくれる。
―――こりゃあ、美味そうだ
すぐにでも手に取って齧り付きたい。
実際に腹が減っていたら、絶対そうしていただろう。
だが今は違う。
ゾロは、悪戯狐を退治にこの場所へやってきたのだからして。




村はずれのあばら家に狐が棲みついて、悪戯をするから懲らしめて欲しい。
友人の国元へ行った帰りに立ち寄った宿で、そんな話が湧いて出た。
悪戯の中身は実に他愛もないものなのだが、懲らしめに行った者が悉く騙されて帰って来るので、一種の力試しのようにこの手の話題が旅籠で流行っているのだという。
「いくら腕に覚えのあるお侍さんでも、騙されちゃあおしまいですよ。朝になったら田圃の真ん中で裸踊りなんて、ざらですからねえ」
案外、こういう話を持ちかけて度胸試しに乗った侍の顛末を村人たちは楽しみに見学にでも行っているのではないか。
ゾロはそう考えると、由々しきことだと眉を顰めた。
武士には武士の面目というものがある。

件の場所はどちらにしろ帰り道にあるのだから、せいぜい気をつけて通るとしよう。
宿の女将にそう話して、眉に唾をつけてここまでやってきたのだ。



実際、いくら美味そうな握り飯とは言え、こんな道の真ん中にできたてが置いてあるのはそもそもおかしいだろう。
これが仕掛けなのか、浅はかな獣の知恵なのかは知らないが、実にわかりやすく理解し難い現象だ。
拾って口に入れたら馬糞と言うのが定番なので、ゾロは無視を決め込んで握り飯の脇をすり抜けた。
一応形状は「飯」なのだから、踏みつけたり蹴り飛ばしたりなどはしない。

なだらかな丘の斜面に、大きな楠木が目印のように立っている。
その根元にどういう訳か・・・寝床がしつらえてあった。
「・・・」
寝床、というより他に表現のしようがない。
絹仕立ての白い上掛けに、緋色地で染められたふかふかの敷布団。
枕元には背の低い衝立と行灯。
これは、どこかで見たような・・・

先ほどの握り飯も、ゾロには覚えがある。
今まで食べた中で最高に美味かったなと今でも時折思い出す、友人の国元で供された握り飯だ。
そして目の前にあるこの寝床は、ゾロが贔屓にしている廓そのもので。
疲れていたらそのままゴロンと横になりたいくらい馴染みのものだが、ここは田舎の村はずれ。
道に握り飯が落ちていたり楠木の根元に寝床があったりするわけがないのだ絶対に。

微かに眩暈を感じて空を見上げた。
一体、この化け狐とやらは何を考えているのか。
こんなにわかりやすい騙し方をしたら、狐の仕業だとすぐにしれてしまうではないか。
これでよく、今まで無事に人をたぶらかしてくることができたものだ。
違う意味で感心して、ゾロは寝床の脇を通り抜けた。
飯と寝床、さて次は何で来るのか。



野原を枯れ草色に染めて、ススキの穂が揺れている。
ついと群れ飛ぶ赤とんぼが、ゾロを誘うように一処に留まりまた飛び去っていく。
出た。
ススキ野原の真ん中に緋毛氈が敷かれていた。
その上には酒と重箱、そして両手をついて頭を垂れている女の姿。
―――おいでなすったか
今までの経緯からして、ゾロが好きなものばかりが出てきている。
ではこの女は、どんな面構えをしているのだろう。
さほど女の姿形に興味はなく、好みも自分で把握していないから却って気になる。
ゾロは大股で草を踏み近寄った。

艶やかな黒髪を垂らし、幾重にも重ねた装束を身に着けた女がそっと顔を上げる。
正面から凝視して、ゾロは足を止めた。
俄かに滾るような怒りを覚え、思わず鯉口を切って女を真横に斬りつける。
寸出のところで抜け出した影がゾロの頭上を越えようとするのを、もう一振りの刀で縫いとめた。
ぎゃっと短く叫んで、影は跳ねるように今度はゾロの懐へ飛び込もうとする。
それも片方の刀で抑え、ゾロは馬乗りになって覗き込んだ。
「ふてえ野郎だ、神妙にしろ」

刀を交差させて地面に縫い付けた狐は、獣の形をしてはいなかった。
年の頃は五つか六つか。
まだ稚い童子の姿をしている。
身に着けた粗末な衣服をゾロの刀で縫いとめられて、子どもの顔をした妖は青褪めながらも気丈にも睨み返してきた。
その目は、見たこともないような色をしていた。
まるで晴れた空のような、道すがら眺めた遠い海のような、不思議な色だ。
しかも何故か、長い前髪に見え隠れする眉毛が渦巻いて見える。
「これが化け狐の正体か、まだガキじゃねえか」
いや、子狐とでも言うのだろうか。
どちらにしろ、片手で捻り殺せるほどに華奢で幼い。
よく見れば身体は酷く痩せて、髪もぼさぼさで色身がなかった。
元々黒い色ではなく、狐のような茶色い髪なのかもしれない。
震える度に光を弾いて、まるで黄金色に見える。
「な、んで・・・んな刀・・・」
ガチガチと歯を震わせる子ども(子狐?)に、ゾロは悪人顔で笑って見せた。
「ああ、さすが妖だな。妖刀がわかるか」
鬼徹を使うつもりはなかったが、あの女の顔を見た途端、我を忘れてしまった。
俺もまだまだ修行が足らん。

ゾロは腰が抜けたような狐をとりあえず腰につけてきた縄でぐるぐる巻きにすると、先ほど寝床があった楠木の枝に吊るした。
狐は手足をばたつかせ抵抗していたが、いかんせん体格は大人と子どもの差がある。
しかもゾロは藩の中でも剛力で知られていた。
力では到底適わない。

後ろ手に縛られて、蓑虫のようにプラプラ揺れながら、狐は足をバタつかせ歯を剥いて威嚇した。
「この野郎、殺すんなら殺しやがれ!この間抜け侍、狐殺し!」
「まったく、お前こそなんて中途半端な狐なんだ。こうまでされたら普通は正体を見せるだろうが。狐なら狐らしく戻ってみせろ」
狐はふんと顔を背け、揺れながら唇を噛み締めている。
「俺を、どうする気だ」
「うむ、このまま村人に引き渡すのもいいが、どちらにしろつかまった狐はもう二度と悪戯をしないと誓うまで懲らしめられるってのが世の常だな。火で焼くか炙るか、棒で体中の骨が砕けるまで叩き続けるか・・・吊ったままこの刀で、膾切りにしてやろうか」
淡々と提案するゾロの言葉に、狐はぶるりと身体を震わせながらも、気丈に言い返した。
「だったらとっとと首を刎ねりゃいいだろうが!何勿体つけてやがんだよっ」
「だから、てめえが本性を出せつってんだよ。このままじゃ、まるで俺が子ども相手に折檻してるみてえじゃねえか」
確かに、目の前の子どもは髪の色も目の色も尋常でないヒトならざるモノだが、それでも幼子の姿を取っている。
ゾロとていい気分はしない。
「狐・・・じゃねえ」
「あ?」
俯き怯えながらも、子どもは足をもじもじさせて呟いた。
「狐にゃ、なれないんだ。俺、狐なんだけど―――」
「つまり、元々狐の形じゃねえってのか?」
ゾロの助け舟に、こくんと素直に頷いた。



ゾロに捕まった狐もどきは、名をサンジという。
母親はれっきとした狐。
といっても野狐の類で、霊力はそう強くない。
父親はどうやら人間らしいが、山向こうの入り江に流れ着いた紅毛人だったらしく、サンジは生まれ落ちた時から異形だった。
狐の子でありながらヒトの形をして、髪は赤く肌は白く瞳が蒼かった。
暫くは母狐が面倒を見ていたが、眷族に厭まれて、ある日サンジを山里に置き去りにするとどこへともなく消えてしまった。
サンジを拾った村では天狗の子として恐れられながらも、古老の元で人並みに育てて貰うことができた。
成長するごとに赤かった髪は黄金色を帯びてきて、村人たちは次第にサンジを神聖視して祠の中で祭るようになっていった。
何の力もないのに、その外見だけで敬われ畏れられる稀有な存在。
それでも、貧しい村の中で育ててもらった恩をサンジは片時も忘れたことはなかった。
親しい友人がいる訳でも、優しい親がいる訳でもないが、村での生活はそれなりに快適だった。
一日一回の供物を食べて、サンジなりに村が豊作であるように疫病や災害が襲わないように祈っていたものだ。
だがある年の飢饉が、村の状態を一変させた。
日照りと旱魃が長い間続き水は涸れ、作物は朽ち果てた。
サンジがいくら祈っても天には届かず、毎日が地獄のような暑さの中で疫病が発生し、村人たちは次々と倒れ息絶えていく。
供物を捧げられないことより、祠にまで足を運べないほど弱った村人たちの姿を見て、サンジはなんとかできないものかと必死になって村中を駆け回った。
山に入っても木の実すら見つからない。
澤へ行っても乾いた土くれが零れるだけで、何一つ得られるものはなかった。
「・・・お助けください、神子さまー」
すっかり痩せ衰えた腕に、僅かばかりの供物を抱いて祠まで這いずるようにやってきた村人を目にして、サンジは声にならない叫びを上げながらひざまづいた。

―――許して、許して欲しい
何もできないんだ。
俺には何も―――

その時、突然目の前に夕食の光景が現れた。
決して、見たこともないようなぜい贅沢な料理の数々ではない。
村人たちがついこの間まで、和やかに囲んでいた夕餉。
炊き立ての麦飯に汁鍋、香の物や正月しか食べられないような餅、一度だけ食べたことのある干菓子。
「あー」
村人は歓喜の涙を流して両手を広げた。
目の前の景色が、どんどん変わっていく。

山は緑や黄・赤と、錦の色味を帯びて豊かに連なっていた。
遠くに聞こえる川のせせらぎ、田圃は黄金色に波打って稲穂が頭を垂れている。
用水路には水が溢れ、蛙が跳ね蛇がうねり、赤とんぼが飛んでいく。

かつての村だ。
豊かな山里の風景だ。
その中で村人たちは温かな飯を食い、熱い茶を啜って、元気に走り回る子ども達に目を細めた。
幸せだった。
幸せな光景だった。
それらのすべてが霧が晴れるようにすうと消え去った時、村は死に絶えていた。





「それが、お前の力か」
楠木の枝に吊られたまま、サンジは嗚咽を殺していた。
思い出し語るうちに、堪えきれない涙が頬を伝い流れ落ちるのを、ゾロは乱暴に手拭いで拭いてやった。
「じ、ぶんでもわかってんだ・・・なんの、意味もない力だって、の―――」
サンジは、人が望むものを見せてしまうのだ。
ただ幻影として見せるだけで、実際にはそこにない。
それだけに、時としてその事実は残酷なものとなる。

サンジは狐の子ではあるが狐ではなく、さりとて普通の人の子でもない。
異形のものとして母狐に捨てられ、村人に祀られていたとしても、サンジ自身は恐らくヒトを嫌ってなどいない。
むしろ人間の中で暮らすことに慣れ、そのすべてを失ってしまったことが悲しくて、この場所から立ち去ることができないでいるのだろう。
狐にも人にも属さず、ただ人恋しさが募れば、今はまだ子どもだがこの容姿で長じれば母親のように「来つ寝」に成るやもしれない。

「悪気があったわけじゃねえんだな」
「ねえ、っつってんだろ・・・自分でも、どうしようも・・・ねえし・・・」
これでわかった。
なんだってこんなわかりやすいが理解できない騙し方をするのかと思ったが、サンジにはそもそも「騙す気」
などはなかったのだ。
結果的に訳のわからぬ力の作用で、訪れる者が勝手に騙される。
しかも、死に逝く者が望みのものを目にして満足して逝くならともかく、ピンピンした村人や旅人が、その時望むものを目にしながらそれが幻ばかりだったと知れば、怒りも嘆きもするだろう。

ゾロはため息を一つついて、サンジの縄を切ってやった。
地面に乱暴に落とされて、サンジはいてっと抗議の声を上げる。
「大体話はわかった。もうこれからは悪さなんかすんなって、お前に言っても無駄だってことだな」
「・・・しょうがねえだろ」
サンジが意図してやっていることではない以上、止めることもできない。
それならいっそ、この存在を消し去ることの方が早いだろう。
ゾロが刀に手を掛けたのを見て、サンジはその場に正座して目を閉じた。
肩の力を抜いてすんなりと細い首を差し出す。

「俺だってもう、これ以上生き延びても惜しくもない命だ。スパッとやってくれ」
「おいおい、俺はガキを斬る趣味はねえぜ」
砕けた口調に目を開けば、ゾロは刀を腰に差し直して荷物を抱えていた。
「てめえをこの場所から連れ出したら、一応成敗したことになるだろ。どうだ、一緒に来るか?」
「え?」
目を見開き、その場で跳ねるほうにぴょこんと立ち上がる。
土に汚れた膝小僧がなんともいとけなく可愛らしい。
「俺はこれから江戸に帰る。まあ、やたらと人ばかり多い賑やかなとこだが、それだけに変わった奴らも結構いてな。お前みたいな毛唐も珍しいこともねえ。どうだ、来るか」
「・・・いいのか」
この期に及んでおずおずと胸に手を当て、サンジはためらうように後ずさった。
「俺、自分で力を制御できねえから・・・またお前の望むものとか、勝手に見せたりしちまうと思う。そんなの、嫌だろ」
「俺は、俺自身のことがよくわからねえ」
ゾロは苦笑し、楠木の根元に視線を落とした。
「さっきな、お前の姿が女に見えていた」
サンジはこくりと頷く。
「俺も、相手の見るものが見えんだ。俺、綺麗な女の人だった。黒い髪で勝気な瞳の・・・あの人、あんたの大切な人?」
ゾロはゆっくりと頭を振って、悲しげにサンジを見つめる。
「俺の友人だ。女だてらにいい剣士でな。俺の好敵手でもあったんだ。だが、急な病で呆気なく死んだ」
サンジは小さく息を呑んだ。
「その国元に遺髪を届けに来た帰りなんだ今は。かけがえのない友人だったと、そう思い込んでいたんだが・・・」
ゾロは苦いものでも飲み下すように口元を歪め、サンジに笑いかける。
「どうやら俺は、やっぱりあいつに惚れてたようだ」
ゾロの代わりに、何故かサンジがくしゃりと顔を崩した。
「俺はまだまだ精進が足らん。己のことも見極められねえ。だから、お前程度の妖が傍にいると何かと都合がいい」
サンジは目尻に涙を溜めたまま、けっと吐き捨てた。
「妖を利用しようなんてふてえ野郎だ。後で吠え面かくなよ」
憎まれ口を叩きながらも目元が赤い。
そんなサンジの頭を軽くこづき、ゾロは歩き出した。
遅れまいと、小さな足音がその後に続く。

「やいお前、俺が名乗ってんだからてめえも名乗れ」
「本当に生意気なコン太だな」
「コン太じゃねえっ」
「んじゃグル眉」
「…なんだそれ、ならてめえは苔緑だ」
サンジはポンと跳ねるとゾロの羽織をよじ登り、襟に手を掛けて緑がかった髪にしがみついた。
「ったく、くそガキが」
ぼやきながら、ずれ落ちるサンジの尻を押し上げて、ゾロはそのまま肩車してくれた。

「どうせなら狐になれよ。首巻きになる」
「だから俺は、化けられねえんだよ!」
とはいえ実は、元の人型を基準にしたなら多少の変化はできないこともないのだ。
現に今だって五、六歳の童に身をやつしているが、本性はゾロとそう変わらない青年の姿だったりする。
ただ童子の姿のままの方が、何かと都合がよかったというだけのこと。

「しかし、最近そんなにひでえ飢饉があったっけな…」
サンジを肩車したまま首を捻るゾロに「お前が生まれる前の話だ」とは教えず、サンジは高いところから見慣れた山を見渡して、気持ちよさそうに目を細めた。

つい、と群れ飛ぶ赤トンボが、そんな二人を追い越していく。




 終





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