■あるひあひる雪



瞼越しに、白く透き通った光が届いた。
一拍遅れて、眩しいなと考える。

「ゾロ、起きろ!」
ゆっさゆっさと揺すられ、「朝か?」と寝ぼけたことを思った。
「起きろゾロ、雪だ!」
サンジのはしゃいだ声に、ようやく目を覚ます。
「ああ?雪?」
そういや寒いなと、頬に触れる空気の冷たさに気付いた。
布団の中で身じろぎして、窓辺に立つサンジを見上げる。
「早く起きろって、すっげえぞ真っ白!」
サンジは弾けるような笑顔で、ゾロと窓の外を忙しなく見比べた。
「へえ」
海辺の町で生まれたゾロは、雪にあまり馴染みがない。
サンジ程ではないが少々胸が躍って、素直に寝床から出た。

起こされた時は眩しいと思ったが、窓越しに眺める景色はそれほど明るくはなかった。
ただ、仄かに光る一面の白さが目を射る。
「雪って、もう3月だろ」
遅まきながら呟いたゾロに、なぜかサンジは偉そうに頷いた。
「そうだろ?今日俺の誕生日じゃん。3月なのに、この雪だぜ」
そう、今日はサンジの誕生日だ。

あひる・・・いや、鳥類の誕生日ってのは、卵が産まれた日なのか卵から孵った日なのか?
一瞬考えてから、いやそもそもこいつが“産まれた”のは、恩人のじいさんがこいつを助けた日だったと思い出した。
だからともかく、3月2日はサンジの誕生日なのだ。

「誕生日に雪が降るって、なんかすげえな」
「だろだろだろ?もう春なのに、すげえよな」
地方によっては『4月の雪』というパターンもあるようだが、少なくともゾロ達にとって3月の雪は珍しい。
まるでサンジの生誕を、お天道様も祝福してくれえいるようだ。
なんて、随分と身勝手で都合のいいことを考えてしまう。

「な、ちょっと外、出てみようぜ」
「温かくしろよ、マフラーどうした」
「もう仕舞っちゃったよ」
ついこの間、春を思わせる陽気になったから衣更えを済ませてしまったのだろう。
「マフラーねえなら毛布かぶれ」
「いや、さすがにそれは・・・」
サンジは笑いながらドアを開ける。
起き抜けだから時間を確認していないが、まだ早朝なのだろうか。
外を歩く人の影は見えず、小路の向こうに見える道路を通る車の音もしない。
しんと静かな街は、白と灰色のコントラストのみだ。

「結構、積もってる」
サンジが足を踏み出すと、雪の中にローファーが沈んだ。
「バイト行くのに、長靴いるだろ」
「大袈裟だな、すぐ溶けるだろ」
楽観的なサンジの言動とは裏腹に、雪は見ている間にもどんどんと降り積もって行く。
面白がって数歩歩くサンジに、ゾロは声を掛けた。
「おい、靴下濡れるぞ」
「うん、冷てえ」
既に手遅れだったか、靴の中にまで雪が染みたらしい。
長い脚をひょいと上げたサンジの、足跡に気付いてはっとした。

それは靴の跡ではなかった。
三本の筋が放射状に広がる、人ならざる足跡。
ゾロは、ちゃんとしたアヒルの足跡など目にしたことがなかったが、これがそうなのかもしれない。
水掻き部分は跡にならないんだなと妙なことに感心し、いやいやと思い直す。
なんで足跡がアヒルなのだ。
前を歩くサンジは、靴を履いている。
なら足跡だって靴の痕じゃないとおかしいだろう。
これでは、足跡を目にした人が不思議がるじゃないか。

「おい」
「ん?」
サンジが立ち止まり、振り返る。
まだ、自分の身に起こった不利益な事柄に気付いていないらしい。
「お前、足――――」
言い掛けて、積もった雪の上に落ちた影に目を止める。
どこからか差し込む光を受けて、サンジの影が色濃く浮かび上がっていた。
だがそれは、人の形をしていない。
アヒルだ。
背が高くすらりとしたサンジの影が、小さな小さな毛玉の塊。

「おい!」
ゾロは思わず駆け寄って、サンジの手を掴んだ。
ひんやりと冷たく、つるりと乾いて無機質な指。
「お前、影が」
「え、俺?」
サンジはいつもと同じように、あどけない顔でゾロを見返す。
「俺、どうかした?」
「あひるだぞ」
「クワッ?!」
鳴き声こそあひるだが、サンジはサンジのままだった。
ゾロと同じくらいの背丈、ゾロより薄い身体。
長い手足、蜜色の髪、透き通った瞳。
咥え煙草で、皮肉気に歪んだ唇。

「ク、クワッ」
サンジは、困ったように火が点いていない煙草を指で挟んだ。
その横顔が、白い雪の中に滲んで溶けていく。
「おい!」
ゾロは慌てて、掴んだ手を引っ張った。
それは相変わらず硬くて冷たくて、ゾロの手を握り返してはこない。
けれど絶対に、離すものかと必死になった。
アヒルだろうが人間だろうが、サンジはサンジだ。

「いいじゃねえか、どっちだって、いいじゃねえか!」




「よくねえよ!」
いきなりパコンと、額に衝撃を受けた。
ゾロははっと目を開けて、しばらく呆然と天井を睨んでいる。
視界を遮るようにして、サンジの顔が覆い被さってきた。
「おーい、起きてる?」
「あ?」
「まだ寝ぼけてんのか」
眉間に皺を寄せ、火が点いていない煙草を咥えながらサンジが身体を起こす。
離れてしまうのを追いかけるように、ゾロは身体を起こした。
どうやら、布団の中で寝ていたらしい。

「・・・夢か」
「もう、せっかく雪降ってんのに」
「雪、だと?」
ゾロははっとして振り返った。
それと同時に、先ほどから自分がしっかりと握っている物に気付く。
「なんだこりゃ」
「見りゃわかるだろ、しゃもじだよ。お前を起こすのに悪戯心でこれでデコぐりぐりしたのは悪かったけど、だからって必死に掴んで離さねえとか、どんな夢見てたんだ」
サンジがぶんぶんとしゃもじを振ったので、ゾロはようやく手を離した。
なんだ、しゃもじだったのか。
そりゃあ、硬くて冷たくてつるりとしてて当たり前だ。

「で、雪だって?」
「おう、だから早く起きろって、すっげえぞ真っ白!」
サンジは弾けるような笑顔で、窓辺に立った。
「今日って俺の誕生日じゃん。3月なのに、この雪だぜ」
「へえ・・・」
ゾロは立ち上がって、サンジの肩越しに窓の外を覗く。
確かに、屋根や路肩にうっすらと雪が積もっていた。
「あ、また降ってきた」
サンジが空を見上げる。
目を凝らしてよく見ないとわからないほど小さな白い粒が、風に呷られて頼りなく降っていた。
「な、ちょっと外、出てみようぜ」
「温かくしろよ、マフラーどうした」
「もう仕舞っちゃったよ」
それならせめて上着でもと、ジャージを肩に着せ掛けてやった。

「お、結構積もってる」
アパートのドアを開けると、廊下の隅に雪溜まりができていた。
サンジは珍しそうに近付いて、靴でちょいちょいと踏んでみせる。
ゾロはじっとその足元を見た。
うん、大丈夫。
ちゃんと靴の跡だ。
影だって、細く長く伸びた人の形をしている。

「雪、すぐ溶けちまうかな」
サンジが名残惜しそうに空を見上げる。
さっきチラホラとちらついていたはずの雪は、もうどこにも見えない。
「プレゼントだろ」
「え?」
ゾロの言葉に、サンジは不思議そうに振り返った。
「お前の誕生日に珍しく雪が降るなんて、きっとお天道様からのお祝いのプレゼントだ」
「――――・・・」
ゾロは大真面目な顔で、てらいなく言った。
夢の中では思っても口に出せなかったから、せめて現実世界ではちゃんと言葉にしてやろう。

「誕生日、おめでとう」
「あ、りがと」

外気に触れて白かった頬が、ふんわりと赤く染まった。
照れ臭いのか、すぐに顔を背けて景色に目をやる。
「コンビニの屋根、真っ白だな」
「駅の方は日当たりがいいから、もう溶けてっぞ」
「ほんとだ、影の境目がくっきり出てる」
他愛無いことを言いながら、並んで手すりに凭れかかった。
そのまま、サンジの手をそっと握る。
サンジは驚いて小さく顎を引いたが、逃げたりはしなかった。
長い前髪の下で口元がへにょんと笑いの形に歪む。
「誕生日って、なんか特別だな」
「そりゃ、誕生日だからな」
「へへ・・・」

サンジの手が、ゾロの手を握り返してくる。
夢よりも柔らかく、夢よりも温かい。
ゾロは普段の何倍も嬉しい気分になって、黙って並んで景色を眺めた。



「やー、雪降るとかめずらし・・・」
独り言を呟きながらドアを開けたウソップは、斜め前に並んで立つ隣人を見つけ言葉を失った。
ぴったりと寄り添うように、それよりなによりガッチリと手を繋いで景色を眺めている。
そんな二人の頭上に、名残の雪が朝日を浴びてキラキラと煌めいた。

「―――――−・・・」
見てはならないものを見てしまったと、ウソップは黙って後退り静かに扉を閉めた。



おわり