あるひあひる湯


「ひいふうみい・・・」
サンジと二人、固唾を飲んで五百円玉を数えた。
それに、祖母からのお年玉と二人のバイト代を合わせ、厳かに「よし」と呟く。
「目標金額達成だ、温泉旅行に行くぞ」
「やたーっ!」
サンジは膝立ちになって両手を挙げ、高らかに万歳した。
裾の短いセーターと重ね着したシャツの下から、ヘソがチラ見している。
薄くて真っ白な腹が目に眩しかった。
尻の尾羽は先っぽが覗くほど雄々しく立ち上がって、フリフリと揺れている。
「温泉だ!ゾロと温泉だ」
「計画通りだな、春の旅行予定に間に合ったぜ」
これを見越して、すでに温泉宿は予約してあった。
当初の目的だったおでかけ横丁リベンジは今回は諦め、さほど距離のない近場旅行だ。
ただし、その分部屋には拘った。
源泉の露天風呂付き客室。
これで誰にも気兼ねなくサンジと二人でイチャイチャ・・・もとい、まったりと温泉を満喫できる。
「頑張ったなあ、やればできるよなあ」
大げさなほど喜ぶサンジに爽やかな笑みを返し、ゾロの脳内は次なる野望へとひた走っていた。


「荷物OK。お金OK。携帯OK。着替え、パジャマとタオルは?」
「いらねえ、全部旅館にあるだろ」
「俺、旅館に泊まるの初めてだ」
サンジはウキウキしながら、何度も荷物を出したり入れたり、入れ替えたりしている。
旅行が決まってから、部屋の中には時々羽毛が散るようになっていた。
嬉しすぎて、何度も尾羽をバタバタさせるせいだろうか。
「あんまりはしゃぐと、尻が禿げるぞ」
「・・・え?それ、笑えない」
青褪めて後ろ手に尻を押さえるサンジに、ゾロはくっくと喉の奥を鳴らしながら笑いを堪える。
「おでかけ横丁みたいに、店がいっぱい並んでるかな」
「残念ながら、そうでかい観光地じゃねえんだ。その代わり旅館の中がでかくて、朝市なんかもあるらしい」
「旅館の中に?」
サンジはぴんと来ないらしく、首を傾けて目をぱちくりとさせている。
「まあ、あんまり期待し過ぎない程度に楽しみにしてようぜ」
「勿論だ。一人で行けって言われたらシュンと来るけど、ゾロとだったらどこへ行くんだって楽しい」
相変わらず可愛いことを言ってくれる。
ゾロは両手の指をワキワキさせながら、込み上げる衝動に耐えていた。

恋のABCすら知らないサンジに闇雲に手を出すのは気が引けるから、なにがしか理由を付けて切っ掛けを作ろうと思ってはいた。
お礼のチューはゾロ限定で有効だと理解してもらえたから、今はいってらっしゃいのチューとおやすみのチューとおはようのチューも確実に付け足されている。
ここで一足飛びに愛のまぐわいまで持ち込みたいのが本音だが、無理はするまい。
焦ってことを仕損じるな。
脳内で己にそう言い聞かせているゾロのストイックな横顔をうっとりと見つめ、サンジは早速「ありがとうのチュー」をその頬に与えた。


春とは言えまだ風は冷たく冬物のコートで充分な曇天模様だったが、旅館の中は外の気温なんて関係なかった。
「わー広え〜」
サンジの感嘆の声が、高い天井に吸い込まれていく。
赤い絨毯を敷き詰められたフロントは広々として、装飾品も重厚でレトロな感じだ。
待合の椅子も鮮やかな柄の布張りで、座ると身体が沈んでしまう。
「いいなここ、ここで寝れそう」
はしゃぐサンジに荷物を預け、ゾロは宿泊の手続きをした。
ウェルカムドリンクをゆったりと飲んだ後、仲居が荷物を持って、部屋へと案内してくれる。
「すげえ、建物の中に川が流れてる。橋がある」
庭園風に設えられたフロアを通り抜け、吹き抜けの中をエレベーターで上昇する。
向かい側の大窓の向こうには瑞々しい緑に溢れた日本庭園があった。
「すげえなあ。あ、あれなに?」
「出店でございますよ。あの一角に明日の朝、市が立ちます」
仲居に教えられて、サンジはガラスに額をくっ付けるようにして見下ろしていた。
エレベーターはぐんぐん上昇し、上階で止まる。
「牡丹の間でございます」
案内された部屋は和洋室で、四畳半ほどの畳の間とバストイレ、それにツインのベッドが並んでいた。
ベランダにはすのこが敷かれ檜風呂が見える。
「こちらは源泉掛け流しでございます、いつでもお入りいただけますよ」
木製の蛇口からは滔々と湯が流れ落ち、春風に湯気が舞っていた。
なんとも贅沢な風情に、サンジはふぁわわ〜と溜息を吐く。
「なにかありましたらお電話でお呼びくださいませ。ではごゆっくり」
サンジが外の景色に見惚れている間に、ゾロは仲居に心付けを渡した。
夕食の時間までは、まだ間がある。
「旅館の中、見てみるか」
「おう、見たい見たい探検したい」
まるで甥っ子達のようなあどけない反応に、ゾロもなんだか保護者のような気分になった。

上階から順番に、なにかありそうな階を巡る。
ラウンジにカラオケ、居酒屋などが店舗として入っていたが、まだ時間が早いらしく開いてはいなかった。
「八時からだって、後で行こうな」
「飯は部屋で食うぞ。ああでもラーメンもあるな」
「こっちはなんだろ。あ、露天風呂」
マッサージチェアを初体験し、ミニゲームセンターで遊んで地階の土産物屋を冷やかす。
サンジにとってはまるで遊園地のような旅館だったようで、あっという間に時間が経っていた。
「そろそろ夕飯が来るぞ、部屋に帰ろう」
「え、もう?でもそう言われれば腹減ったな」
「さっきアイス食っただろうが」
「あれは別腹」

部屋で豪勢な食事を楽しみ、サンジもほんのちょっと酒を飲んだ。
頬がほんのりと桜色に染まり、白地に藍の縦じま浴衣もよく似合っている。
夕食を終えて片付けてもらい、布団も敷かれた後はもうなんの邪魔も入らない時間だ。
「んじゃ、風呂入るか」
「おう、いってらっしゃい」
この期に及んで、一人で風呂に入らせようとするサンジに、ゾロは表情をきりりと引き締めて向かい合った。
「折角の露天風呂だ、一緒に入ろう」
ゾロにまっすぐに見つめられ、サンジはたじろぐように視線を逸らした。
「・・・でも」
「いいじゃねえか、もうなにも知らねえ間柄じゃねえんだし」
そう言われると、サンジはこくんと小さく頷いた。
「そう、だよな・・・俺、アヒルだってゾロはもう知ってるよな」
「おう、そん通りだ。今さら恥ずかしがるようなこと、ねえだろ」
「・・・う、ん」
それでもまだモジモジしながら、サンジは浴衣の襟元を撫で付けた。
「とにかく、ゾロは先に入ってくれ」
「おう、だが中で待ってるぞ。必ず来いよ」
念押しするゾロに、サンジは頬を染めたままこっくりと頷いた。

昼間の曇天が嘘のように、くっきりと晴れた夜空に星が瞬いている。
月はまだ山の端に隠れているのだろうか。
月光がない分だけ、星の輝きは鮮やかだった。
淡い明かりの下で湯気にまどろみながら、ゾロは檜の桶に手を掛けて空を眺めていた。
まだかまだかと気は急くが、表面上はゆったりと待っている。
とそこに、擦りガラスの向こうから人影が近付いてきた。
「お邪魔、しまーす」
サンジはおずおずと顔を覗かせ、うわ、さぶっと呟きながら裸足で外に出て来た。
脱衣籠にタオルを置き、くるりとゾロに背を向ける。
帯を解くのにやや手間取ったが、なんとか外し終えると浴衣を方からするりと脱ぎ去った。
――――おお!
夜目にも仄かに発光しているかのような、白い肢体が浮かび上がった。
金色の髪の先から覗くうなじと、肩甲骨へのラインが実に美しい。
さらに滑らかな背中とふっくらとした尻の下には伸びやかな長い足が続いていた。
ふっくら・・・
ゾロはまじまじと、サンジの尻を見ている。正確には、ぷりんとした剥き卵のような尻の上、尾てい骨の辺り。
ふわふわもっさりと、真っ白な尾羽が密集している。
今日はそれらが、一様にピンと張り詰めた感じで逆立っていた。
緊張しているのだ。
「えっと、身体洗った方がいいんだよな」
「掛け湯でいいよ」
早く来い来い!
そう言いたいのを必死で我慢し、ゾロは素知らぬ顔で自分の肩に湯を掛けた。
もはや心臓はバクバク高鳴り、さほど浸かってもいないのに湯中りを起こしそうだ。
「んじゃ、失礼」
サンジは微妙に身体を捻りながら湯船の側にしゃがむと、檜の手桶で湯を掬って静かに自分の肩に掛けた。
湯が跳ね散らないように配慮した、実に優雅な仕種だ。
公衆浴場マナーだって、バッチリじゃねえか。
感心するゾロが瞬きをした後、そこに艶やかな裸体はなかった。

「―――・・・」
ぴるるっ
ゾロが定めた視線よりさらに下、湯船に隠れて見えない部分で水飛沫が立っている。
覗き込めば、まず尾羽からぶるぶると羽根を震わせ、尻から身体、首へと震えを通して最後に頭をぷるぷる振った。
「くわっ」
つぶらな瞳がゾロを見上げ、小さくて丸い頭がくよんと僅かに傾いた。
そのまま、くちばしで湯船をがっと掴み、短い羽と足をバタつかせて手桶の上に乗ろうとする。
湯船に入ろうともがいているのだと気付いて、ゾロはそっと両手を差し出した。
柔らかい腹に手を差し入れてゆっくりと持ち上げ、湯船に浸からせるとアヒルは礼をするようにぴるぴると尾羽を揺らした。
「くわっくわっ」
礼を言っているのだろうか。
長い首を二度ほど縦に振って、ゾロに尻を向けるとすいーと湯の上を滑るように泳ぐ。

すいーすいー
くわー

「そういう、ことか・・・」
ゾロがポツリと呟くと、アヒルは「なあに?」とでも言いたげに、首を曲げて振り向いた。
実に可愛い、つぶらな瞳だ。
あどけなさ過ぎて涙が出そうだ。
「お前、風呂入るとアヒルに戻るのか」
「くわ」
「水は?洗い物とか、大丈夫だよな」
「くわ」
すべて「くわ」の二文字だが、イントネーションでなんとなくわかる。
「湯だと、アヒルになるとか」
「くーわ」
「え?全身浸かると?つか、身体の三分の二とか」
「くわ、くわ」
なるほど、そういうことか。
身体の大半が水や湯に濡れるとアヒル化するのだ。
それでは―――
「人間に戻るのは、どうすんだ?」
ゾロの素朴な疑問に、アヒルは可愛らしい翼を羽ばたかせることで答えた。
「くっわぁ〜」
バッサバッサバッサ
「ああ、えーと、乾かす?」
「くわっくわ」
なんか、昔そういう映画があったな。
一生懸命水分を拭って人間に戻るやつ。あれは人魚だったけれども。
「つまり、風呂に入るとアヒルになるんだ」
「くわ」
ようやくわかったかと言わんばかりに、アヒル・・・もとい、サンジはついっと顔を背けるとまた湯船の向こうにすいーと泳いでいった。
尾羽をフリフリ、胸を張ってどこか誇らしげだ。
ゾロの目の前で心身ともに包み隠さず披露できて、心の錘が取れたのだろう。
「そっか、そういうことか・・・」
ゾロは一人取り残された気分で、呆然と湯船に浸かっていた。
夢にまで見た、サンジとの露天風呂。
一緒に湯に浸かって、背中の流しっこしたりなんかして、おっと手が滑っちまったぜ的なアクシデントからのピンク展開からの〜
―――夢は、潰えた。
いつの間にか中空に浮かんだ月が、一人と一羽を優しく照らし出していた。



アヒルを小脇に抱え、ゾロは頭にタオルを乗せて部屋に戻った。
自分の身体を拭くのもそこそこに、丹念にアヒルの羽を拭ってやる。
アヒルは気持ち良さそうに目を細め、アヒルらしからぬ姿勢でもってころんと寝転がり、水掻きをパタパタさせながらゾロの指のするがままに身を委ねていた。
これがサンジならば色っぽいのだろうが、いかんせんアヒルだ。白い毛玉がしどけなく横たわっても、ゾロの欲望には火が点かない。
バスタオルを広げて、その上にアヒルが自分でころんころん転がっている間に、ゾロは浴衣に袖を通した。
帯をぎゅっと締めて振り返れば、いきなりすんなりとした長い足が目に飛び込んでくる。
「うっし、これでよし」
サンジは優美なラインの腰をくねらせて、バスタオルの上から身を起こした。
白い尻には尾羽だけが名残として残っている。
そのまま四つん這いで脱衣籠まで移動して、腕を伸ばしてパンツパンツと中を探った。
「えっとおゾロ、これどうやって着るんだっけ」
浴衣を適当に身体に巻きつけ始めたサンジに、ゾロはそっと溜息を吐いて近付き、着せ直してやった。

人間になったらいつもと変わらぬサンジなのだが、どうかするとこう、見上げる瞳が先ほどのアヒルのつぶらな瞳と重なってしまうのだ。
愛らしい、実に穢れなき無垢な瞳。
サンジもアヒルも愛しいことには変わらないのに、なぜかアヒル姿を目にするとサンジへの欲情が大変な冒涜に思えてしまう。
こんな可愛い生き物に無体を働くなんて、何たる非道。
許されざる暴虐で、言語道断だ。
でも可愛い、好きだし触れたい、愛したい。
ゾロの懊悩など知らず、サンジは風呂上りで上気した頬をそのままに浴衣を着せてくれたゾロに対してありがとうのちゅーをした。

「俺、カラオケしてみたい」
「おう、するか。ゲームもするか」
「あとラーメン」
「おういいぞ、なんでもするぜ。折角だから楽しもう」
ゾロは自棄になって、その夜は大いに歌い遊んで食べた。
ただしく、温泉宿を満喫できた一日だった。


おわり



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