あるひあひる探



サンジの様子がおかしい。
どことなく気が抜けたようにぼうっとしているし、動きも緩慢でいかにもダルそうだ。
風邪でも引いたかと額に手をやると、驚くほどひやりとしていた。
体温が下がっている。
「どうした」
思わず懐に抱きかかえようとしたら、腕で突っぱねられた。
「…なんでもねえ」
「なんでもねえ訳あるか!そんな顔して―――」
血相変えたゾロに容赦なく蹴りを入れ、サンジはソファに寝転がった。
「いいから、俺のこたぁほっといてくれ」

こんなやさぐれたサンジを見るのは初めてのことで、ゾロらしくもなくうろたえてしまった。
具合が悪いなら医者に連れて行かなければならない。
確か、サンジはちゃんと保険証も持っていたはずだ。
人間の保険証で、動物病院は受け付けてくれるだろうか。

「俺は大丈夫だ、学校行くんだろ?早く出ねえと遅刻するぞ」
「しかし…」
「学校はちゃんと行かねえとダメだろ」
そう言って、だるそうに顔を背け目を閉じてしまう。
ゾロは仕方なく「じゃあ行ってくる」と踵を返した。
後ろ髪を引かれる思いだが、サンジも子どもじゃないからこれ以上構いだてすると本気で怒ってしまうかもしれない。
子どもじゃないと思いつつ、初めての反抗期を体験した親のような気持ちで、ゾロはとりあえず学校に向かった。



気もそぞろで授業を終え、ついでにバイトを済ませて帰宅したのは夜10時過ぎ。
アパートの階段を上っていても、いつも嗅ぐ料理の匂いがしない。
胸騒ぎがして急いで部屋に向かい、カギを開けるのももどかしくドアを引っ張った。
「ただいま」
「…おかえり」
サンジはいた。
けれどすでに布団を敷いて、毛布の中に潜り込んでしまっている。
「大丈夫か」
ゾロは取るものも取りあえず、サンジの枕元に駆け寄った。
「しんどいのか?」
「いや、なんともねえ」
毛布の裾から金髪だけがはみ出していて、顔はすっぽりと隠れてしまっている。
ゾロの顔を見て「おかえり」と言わないなんて、なんともないはずがない。

「今日は、仕事どうしたんだ」
「うん、おっちゃん達温泉旅行に行ったから、一週間ほどお店お休み」
くぐもった声で答えられ、ゾロはそうかと小声で呟いた。
もしかしたら、惣菜屋の夫婦は旅行を口実にサンジに長期の休みをくれたのかもしれない。
いまやあの店はサンジで成り立っているし、サンジが「休みたい」と言えば、いくらでも都合をつけてくれるのだろう。
それはありがたいことだが、こうまでして寝込んでいるサンジの体調が気がかりだ。

「とにかく、具合悪いなら医者に行くぞ」
「大丈夫だ」
「なにが大丈夫だ、顔も見せねえで」
「――――悪い」
むくっとサンジが顔を上げた。
頭から毛布をひっかぶって、乱れた前髪が顔のほぼ半分を覆い隠してしまっている。
なんとなく、顔色が悪い。
ゾロが触れようとすると、びくりと身体を震わせて後ずさった。
一体何事かと、胸騒ぎが収まらない。

「悪い…触られんの、嫌だ」
「なんでだ、なにがあった?」
「なんもねえよ。…そういう、時期なんだ」
なんだろう。
―――もしやつわり?
あり得ないことを思いついて、いやまさかと一人で首を振る。
ゾロに心当たりなど、ない。

「悪いけど、俺もう寝たいから…飯とか、用意してなくて悪い」
「そんなん構わねえ。寝て治まるようならいくらでも寝ろ。俺のことはいいから」
おやすみ、と毛布を掛け直してやると、サンジはそのまま撃沈するように布団に埋もれてしまった。
顔を上げることも、億劫だったのだろうか。

ゾロはしばらくサンジの枕元を意味もないのにウロウロと歩き回ったが、仕方がないので夕飯を買いにコンビニまで出かけた。
弁当を買って帰っても、サンジが潜った布団はぴくりとも動かない。
一人でぼそぼそと弁当を食べビールを飲んで、風呂も入らずに寝てしまった。


*  * * 


「んじゃ行ってくる」
「…おう、行ってらっしゃい」
朝になっても布団から出てこないサンジを寂しく思いながら、ゾロはバイトに出かけた。
途中でコンビニに寄って弁当を買う。
今日は工事現場で体力仕事だから、ちゃんと食べておかないと腹が持たないのだ。
それでも、昨日より早く帰れるから気は楽だ。

ゾロはせっせと働いて、帰りにコンビニに寄って口当たりのよさそうなデザートをいくつか買った。
サンジがあの調子では、ろくに食べてないかもしれない。
つわりにはみかんだろうが、つわりじゃないから何が食いたいのかわからない。
だから、食べられそうなものを適当に見繕う。


「ただいま」
部屋の中は、電気も点けず真っ暗だった。
けれど、サンジの気配はする。
ゾロは明かりを点けてビニール袋を食卓の上に置き、早足で寝室に向かった。
「大丈夫か」
「―――― …」
布団のこんもりとした山が、昨日より小さくまるくなっている。
これは――――

「大丈夫か」
毛布を捲るまでもなく、はみ出した白い羽毛があちこちに散乱していた。
そのあまりの量の多さに、ぎょっとしてしまう。
思わず駆け寄って毛布をはがそうとしたらできなかった。
どうやらサンジが、中で一生懸命押さえているようだ。
「バカ野郎、見せてみろ」
「――――っ!」
「見ないとどうなってるか、わかんねえだろうが」
力任せに引きはがしたら、中からアヒル姿のサンジが現れた。
が、いつもの毛玉ではない。
あのふっくら艶々した白い毛玉と随分違う、やけにくたびれた姿だ。

「どうしたんだ…これっ」
思わず両手で抱きかかえたら、あのふかっとした感触がなかった。
すっかすかのガリガリだ。
「お前、これはやばいんじゃ…」
手に、硬いものが当たってはっとする。
乱暴に裏返したら、不揃いな羽の間から細いストローのような管がいくつも生えていた。

「――――・・・きも」
思わず呟いてからはっとしたが、もう遅かった。
サンジはゾロの手を強く蹴り、羽根を撒き散らして飛び上がると「クワアアッ」と一声叫んで身を翻した。
「おいっ?!」
「・・・ク、クワアアアアアアッ」
哀しげな雄たけびを上げ、サンジはドアに体当たりをかまして扉を押し開けた。
サンジが心配で鍵を掛け直していなかったことに、今頃気づく。

「おい、待て!」
ゾロは慌てて裸足で飛び出したが、サンジはアパートの手すりをひらりと乗り越え、夜の闇の中へと不器用に飛び去って行った。

暗闇にサンジを見失ってゾロは焦った。
明らかに尋常でない様子なのに、その上、あひる姿のまま外に出てどうしようというのか。
心配のあまり血相を変えて必死で近所を探したが、サンジは見つからなかった。
随分くたびれた感はあるが、闇夜に白い姿は目立つだろうにどこにもいない。
ゾロは結局明け方まであちこち駆けずり回ったが、サンジの行方は杳として知れなかった。



「一体どうした」
疲労困憊でアパートに戻り、悄然と項垂れて階段に腰掛けているゾロを、朝帰りのウソップが見付けた。
展覧会の準備とかでここ数日、大学に泊まり込んでいたらしい。
ウソップも疲れていただろうに、あまりに意気消沈した様子のゾロを見兼ねて、部屋に上げてくれた。

「一人であんなとこにいて、カギでも無くしたのか。サンジはどうしたんだ?」
「…出て行った」
「ええ?!」
いきなりディープな別れ話に巻き込まれたかと悟って、ウソップはコーヒーを煎れながら青ざめる。
「出てたって、いつ…」
「さっき、つうか夕べ」
萎れた様子のゾロに、ウソップは同情の目を向けた。
「じゃあまあ、ものの弾みっつうか衝動的なもんじゃね?すぐ戻ってくるさ」
「…いないんだ」
ゾロは片手で顔を覆った。
「部屋から飛び出したの、俺は見てるのに。すぐに追い掛けたのに見失った」
「あいつ、足早そうだしなあ」
けど、子どもじゃないんだし…と続ける。
「なにがあったか知らないが、ちょっとした喧嘩だろ?大丈夫だ、サンジも頭冷やしたらすぐに戻るさ」
ウソップの慰めにも、ゾロは沈痛な面持ちを隠さない。
「俺が悪い」
「ん?」
「あいつ、具合悪かったのに。あんまりしんどそうだから心配してたのに。つい、弱ったあいつを見て――」
「ち、ちょちょちょ…ゾロさん?」
なにを言いだすかと、ウソップは慌てた。
「つい、キモいとか言っちまった」
「―――― …」
ウソップは絶句してから、ふっとため息を吐いた。
「それはお前が悪い」
「…だな」
そうでなくとも、身体が辛いときは気持ちも弱っているだろうに、よりによってキモいとは。

「反省してる」
「なら、サンジが帰ってきたら誠心誠意、そう謝るんだな」
「帰って…きたら…」
またゾロが顔を覆ってしまったので、ウソップはやれやれと首を振る。
「大丈夫だって、サンジの荷物も着替えも全部、部屋に残ってるんだろ?人間、そう簡単に消えやしねえよ」
人間…人間ならばここまで心配しない。
人間じゃ、ないから。
「とりあえず、出てった時の服装はどんなんだ?ジャージとかならいいけど、パジャマだと恥ずかしいだろうし…」
ゾロは顔を覆った指の間から、ギロリとウソップを見た。
「服は…着てねえ」
「―――― …」
それは、心配だねえ。

再び訪れた気まずい沈黙の中、ウソップは冷めたコーヒーをズズズと啜る。
「…でもまあ、あれだ。サンジは結構目立つし知り合いも多いし、俺も気を付けて探してみるよ」
「頼む」
ゾロは思い詰めた表情でウソップに頭を下げた。
これは相当凹んでいる。
恋人?に全裸で飛び出されたなら、それはそれで大変だろう。

「カヤにもそれとなく言っておくよ。大ごとにならない程度に」
「そうしてもらえると助かる」
「お前も、心当たりとかないのか。行先とか…」
ゾロは少し考えて、口を開いた。
「ここんとこ寒いから心配だが水辺とか、川のほとりとか。あと、草むらの中も詳しく調べてくれ」
「猟奇的な臭いがするのは、なぜだ」
冷や汗を掻いて黙ったウソップの前で、ゾロは神妙な顔で一人頷いていた。


  *  *  *


そう遠くへは逃げていないと思うのに、サンジの姿がさっぱり見えない。
相当弱っていたから、自分では人間形に戻れないのかもしれない。
だとするとアヒル姿を探さねばならないが、目立つはずなのに目撃情報はなかった。

「ちょっとくたびれた感じの、アヒルなんだ」
結局ゾロは、サンジ探しと並行してウソップにアヒル探しも依頼した。
「なんでアヒルなんだ、サンジがいなくなったんだろ?」
「アヒルが鍵なんだ。前にサンジに遺産相続問題が絡んだ時も、アヒルが鍵になってた」
「なにそれ、ドラマより奇想天外だな」
「お前は詳しく聞かない方がいい」
ゾロに真顔でそう言われると、聞いてはいけない病を容易う発症するのは、ウソップの長所かもしれない。

「えっと、アヒルってこんな感じで?」
「おおそうだ、さすがに上手いな」
感心しながら、ゾロは両手で形を作る。
「こんくらいの大きさで、重さはこんくらで」
「具体的だな、まるでそのアヒルを飼ってたみたいだぞ」
「飼ってなんかねえよ」
一緒に、暮らしてたんだ。
「よし、こんな感じかな」
ウソップが特徴を捉えて描いたアヒルの絵は、手分けしてあちこちの電柱に貼られた。
一応、電柱の近くの家には了解を得て回る。

「迷いアヒルなんで、見つけたらお願いします」
「あら可愛いわねえ、こんなの見つけたら後ついて回っちゃうのに」
管理人さんも、独自のネットワークを駆使して探してくれると約束してくれた。
「変わったアヒルね、眉毛が巻いてるの?って言うか、眉毛あるの?」
「ちょっと特徴的なんで、見つけやすいと思うんです」
ゾロは、当たり前みたいに堂々とした態度で説明した。
だから説明される側も、そういうこともあるかもしれないと素直に受け止める。
「任しといて。店の中にも貼るよ」
コンビニの店長さんも請け負ってくれて、迷子のアヒルチラシはあっという間に捌けてしまった。

「これで、見つかるといいな」
サンジ探しはどこに行ったのかと突っ込みたい気持ちを抑え、ウソップはゾロを慰めるように言った。
どういう関係があるかはわからないが、きっと藁をも掴みたい気分なのだろう。
早く、アヒルもサンジも見つかればいいのに。
気のいいウソップの心配も虚しく、それから二日経ってもアヒルもサンジの行方も分からなかった。


大学に行く道すがらも、落ち着きなくキョロキョロと周囲を見回して白い姿を追った。
バイトに行っても身が入らず、もう来なくていいよと2軒首になった。
工事現場など作業系のバイトは、他の人にも危険が及ぶといけないから自分から控えている。
空いた時間をあひる探しに費やした。
けれど、サンジは見つからない。

真っ暗な部屋に帰り、一人で溜め息を吐いても誰も気になど掛けてくれない。
「おかえり」とも言ってくれないし、温かい食事を用意していてもくれないし、何も言わなくても料理ができなくても、無言で出迎えてくれる丸い毛玉の姿がない。
サンジが来るまで一人暮らしをしていたのに、いま、こんなにも一人が辛いとは思わなかった。
サンジがいない。
そのことが、ここまで絶望を感じさせる境遇になるだなんて、思わなかった。

たった一人の部屋でものもろくに食べず、ゾロは忙しなく部屋を出たり入ったりを繰り返している。
じっとして、いられないのだ。
どんどん寒くなる気候の中で、どこかで震えてやしないか。
腹を空かせてはいないか。
虫を怖がっていないか。
そう考えるだけで、心配でたまらない。
だからつい、当てもないのにふらふらと部屋を出て見覚えのない場所を夜通し彷徨ってしまう。


「ゾロ、お前これを食え」
いつの間に傍にいたのか、ウソップが起こったような顔でビニール袋を差し出していた。
中には温かい、コンビニおでんが入っている。
「食うもんはちゃんと食え。そんな面じゃ、サンジ見つけたって逆に心配かけるぞ」
黙って受け取ったら、掌におでんの温かさが沁みた。
そのぬくもりが、あひるサンジを抱えたときのそれに似ていて、またきゅっと心が萎んでいく。
「まだアヒル、見つからないの?」
コンビニの店長がゴミを片付けに外に出てきて、気遣わしげに聞いてきた。
店長には「サンジ行方不明」とは言っていない。
「あひる行方不明」だけだ。

「最近は野良犬とかあんまり見ないから大丈夫とは思うけど、猫とかもいるからねえ」
サンジが、白い羽をまき散らして野犬や野良猫に首根っこを噛まれている姿を想像すると、ゾロの心がさらにきゅきゅきゅっと萎む。
「保健所とか、聞いてみた方がいいんじゃねえか?」
野良犬から発想したのかそう提案するウソップに、ゾロは緩く首を振った。
「もう聞いた。どっかで保護したら連絡くれるようにも言ってある」
もしやと思って問い合わせ済みだ。
けれどサンジは、そこにもいなかった。

「うーんじゃあ、動物病院とか」
店長の発言に、ゾロとウソップは一斉に振り向いた。
「動物病院?」
「そうか、そこがあったか」
なぜ気付かなかったかと、己の失念を悔やむ。
「この辺の動物病院って、どこかな」
スマホを取り出したウソップに、店長はこともなげに言った。
「ここらだと1軒しかないよ。『トラファルガー動物病院』ってとこ」


   *  *  *


展覧会があるからついていけなくて悪い、と謝るウソップに礼を言いゾロは単身動物病院に向かった。
少しでも手がかりを掴みたい一心だったせいか、珍しく想定内の距離で目的地に辿りついた。
ちょうど休診時間だったが、ドアが開いていたから勝手に待合室へと入る。
受付に、クマがいた。

クマ、としか形容のできない顔立ちの受付がいたが、ゾロは大人の嗜みとしてじろじろと眺めたりせずにさり気なく切り出した。
「時間外に悪いんだが、この病院にあひるは保護されてないだろうか?」
「アイアイ、あひる?」
クマなのに人語を喋る。
もしかしたら人間で、患者(患畜?)が怖がらないように着ぐるみを被っているのかもしれない。
小児科医がわざと可愛らしい恰好をするようなものだ。
ゾロが感心していると、クマはこともなげに言った。
「あひる、いるよ」
「いるのか?!」
思わず勢い込んで身を乗り出したら、受付の窓ガラスにガンと額をぶつけてしまった。
ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入り、クマが怯えて悲鳴を上げる。
「だ、大丈夫?」
「いるのか?!本当にあひるがいるのかっ」
ヒビを突き破ってガラス片をまき散らしながらクマの襟首を掴んだら、声にならない雄たけびを上げられた。

「ぴ――――っ!!」
「何をしている」
ほとんど修羅場と化した待合室に、冷静な声が落ちた。
ゾロが振り返ると、クマがびえーんと鳴き声を上げる。
「キャプテン!じゃなかった、ドクターたすけてっ」
「あんたが、先生か」
受付にクマを置くくらいだ。
よほど患畜に気を遣っているのか、医師らしき男はモフモフした毛皮の帽子を被っていた。
感情を表さない冷酷な眼差しに、目元はうっすらと隈で覆われていて正直陰気くさい。

「教えてくれ、いや会わせてくれ!あひるはどこにいる?!」
クマを投げ捨てて医師に詰め寄ったゾロの勢いにも、その男はひるまなかった。
「確かに俺はあひるを保護したが、あれには鑑札も足環もなかった。お前のものだという証拠はあるのか」
「――――っ」
一瞬言葉に詰まったが、ゾロはきっとして言い返す。
「ある、会えばわかる」
やっと、やっとサンジに会える!

ゾロの熱意が通じたのか、医師は黙って奥の部屋へと続く扉を開けた。
建物も新しく清潔な感じで、檻が並んでいるとは言え全体的に雰囲気が明るい。
人が入ってきたことで犬が一斉に吠え始めたが、いずれも尻尾を振っており威嚇すると言うより歓迎しているようだ。
だがうるさい。
こんなうるさい、獣臭いところにサンジが閉じ込められていたのかと思うと、ゾロは早く連れ出してやりたくて気が急いた。
「どこだ?」
医師より先に部屋に入りあちこち探すゾロに、ちっと舌打ちだけ返してさらに奥の扉を開ける。
「こっちだ」
中庭に通じているようで、芝生が敷き詰められた一角に檻があった。
水を張った盥が一緒に入れられている。

「サンジ!」
「――――――っ!!」
ゾロの姿を見つけ、あひるがクワッと首を伸ばしその場で羽ばたいた。
檻の間に嘴を突っ込んで飛びつくようなそぶりを見せ、はっと止まってからゆるゆると首を引っ込める。
「サンジ…よかった」
ゾロが駆け寄るのに、あひるは丸くなってぐいっと首だけ背けた。

「コンビニからの帰り道に、いきなりそいつが降って来たんだ。夜遅かったし、ウロウロして野犬にでも襲われるといけないから、俺が保護した」
「ありがとう、ありがとうございます」
ここに来てようやく、ゾロはちゃんと礼を言うことができた。
サンジの姿を確かめるまでは気が気じゃなくて、そこまで頭が回らなかった。
「換羽期だったから本来は安静にさせてやらなきゃならん」
「…とや?」
「あんたは、飼い主じゃないのか?」
医師は不審さを露わにして目を眇めた。
「羽の抜け代わりの時期だ。個体によって症状は変わるが概ね辛い時期で、食欲も落ちる。きちんと生え変わるまで1か月から2か月くらいかかるが…どうもこいつはペースが早いな」
「そうなのか」
言われて目をやれば、あひるは頑なに丸まって頭を羽の間に突っ込んだままだ。
けれど色艶もよくふかふかとして白い。
ゾロが知っている、綺麗な毛玉だ。
「初めての換羽のようでもあるが…どちらにしろ、飼い主だったら気を付けてやらなきゃならない時期だ。こいつは若いからいいが、年寄りの場合はそのまま体力を消耗して死に至ることもある」
ドキリとした。
こんなことで、ぽっくりいって貰ってはたまらない。

「こいつの命の恩人だ、本当にありがとう」
医師にきっちりと頭を下げ、再びあひるに向き直る。
「ごめんな」
ゾロの言葉に、尾羽がぴくっと揺れた。
怒って拗ねてもいるのだろうが、これはもう仕方ない。
なんせそれだけのことを、ゾロはしてしまった。
「俺は、お前のことをなんにも知ろうと、しなかったんだな」
不思議あひるだとそのまま受け入れていて、あひると暮らすことについて何も調べてなどいなかった。
ただ、そこにいるのが普通だと思い込んでいた。
いくら人間になれるからって、本来はあひるだったのに。
あひるの生態くらい、ちゃんと調べておけばよかったのに。

「キモいとか言っちまって、本当にごめん」
サンジの尾羽がピルピル震えた。
ゾロの言葉に怒っているようにも、泣いているようにも見える。
とにかく、顔は羽根の間に突っ込んだままだ。
けれどゾロにはわかる。
サンジは、帰るに帰れなかったのだ。
タイミングがよかったのか悪かったのか、専門家に保護されて収容されてしまった。
檻の中から勝手に出られないし、なにより全裸だから人間の姿にもなれない。
ゾロに連絡する手段もないまま、ずっとここで大人しく暮らしていたのだろう。
それとも、あひるのサンジにとってはここの暮らしの方が居心地がよかっただろうか。
無神経なゾロと暮らすより、あひるとして自然に過ごしていた方がよかっただろうか。

「お世話になりました、こいつは俺が連れて帰ります」
医師に向き直りきっぱりと言うゾロを、医師は値踏みするような目で見た。
「まだ、あんたが飼い主だってことを証明してもらってないんだが」
もしあひるが懐いていたなら、もうちょっと嬉しそうに飛びついたりするだろう。
けれどむしろ、知らんぷりして拒絶しているようにも見える態度だ。
ゾロはこれが「拗ねている」とわかっても、傍目に見てそうは取れない。
「俺は…こいつの飼い主じゃないんだ」
ゾロの言葉に、医師の眉間の皺が一層濃くなる。
「俺は、こいつの恋人なんだ」
「――――――?」
リアクションに乏しい医師の後ろで、恐る恐る成り行きを見守っていたらしいクマが、ガボーンと口を開けている。
クマなのに、医師よりよほど表情が豊かだ。

「こいつと一緒に暮らしてるんだ。俺に、連れ帰らせてほしい」
アカン、これアカンやつや。
クマの目が、そう語っている。
キャプテン…いや、ドクター。
これ完璧にあきまへんよ、イっちゃってますよ。
人間の病院連れてった方がいいんちゃいまっかな。

なぜか関西弁に変換された無音の突っ込みが聞こえた気がするが、さくっと無視してゾロは医師に目で訴えた。
―――なにがなんでも、俺はこいつを連れ帰る。
その目力に負けたか、医師はすっと視線を逸らした。
「そこまで言うなら、ちゃんと二人で話し合え」
二人って、一人と一羽ちゃいますのん?
目で突っ込むクマを押しやって、医師はとりあえず部屋へと戻ってくれた。
中庭に取り残されたゾロは、そっと檻の鍵を外す。

「俺は、お前の恋人でいいんだよな」
そう語りながら手を差し伸べて抱き上げたら、あひるはゆるゆると首を擡げた。
丸くて円らな瞳が輝きながら揺れている。
ほろりと涙のしずくが零れ落ち、ゾロの手の甲を濡らした。
「迎えに来たぞ、一緒に帰ろう」
真っ白な羽根が、ゾロの肩を包み込んだ。


  *  *  *


「お世話になりました」
泰然と立つ医師の周りでクマがそわそわして待っていたら、中庭へと続く扉が開いて中から男が二人出てきた。
びっくりしているクマの前を素通りし、医師の元まで歩み寄る。
「どうも、ありがとうございました」
見慣れない金髪の男は、フード付のパーカーを着て裾からはみ出た手をもじもじ合わせつつも、殊勝な態度でぺこりと頭を下げる。
いまさら「誰だお前」とも問わず、医師はただ珍しげに金色の旋毛辺りをじろじろと見た。
「保護費…つうか診察代、払います」
ゾロは尻ポケットから、クシャクシャの紙幣を取り出した。
サンジが傍にいてくれた時は細々と財布の管理もしてくれていたのだが、今は身の回りに気を遣っている余裕などなかった。
ぶっちゃけ、ゾロはずっと着替えていないし風呂にも入っていない。
日雇いのバイト代をポケットに突っこんであったから、それをそっくり取り出しただけだ。

その惨状をどう理解したか、医師は酷薄に見える表情のままで首を振った。
「診察も何も、保護したはずのあひるがいない」
「え…あ、それは―――」
「いないものに、診察代は請求できん」
ただし――――と、人差し指を掲げた。
「窓口のガラス代は、弁償してもらう」
「―――――あ…」
指摘されて、思わず足元を見る。
細かく砕け散ったガラスの欠片が、キラキラと輝いていた。


  *  *  *


片付けを終えて病院を出たころには、すっかり夕方になっていた。
二人、並んで歩く影が下り坂に長く伸びている。
どこからか、煮物をしている匂いが漂ってきた。
「…今晩、何食べたい?」
「なんでもいい」
「なんでもいいは、なしだって」
「なんでもいいんだ、本当に」

本当に、なんでもいい。
サンジさえ、傍にいてくれたなら。

だらりと下がったゾロの手が、サンジの手の甲に触れた。
どちらからともなく掌を合わせ、そっと指を絡める。
しっかりと手を繋ぎ、久しぶりに二人揃って家路に着いた。


End



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