あるひあひる甘


予定より早くバイトが引けて、ゾロはがっつりと厚着した作業着の上から更にジャンパーを着込んだモコモコ状態で、早朝の街を歩いた。
 徹夜には慣れているが、それでも眠くて生あくびが出る。夜中中ずっと工事現場で立っていた。たまにしか通りかからない車を誘導するだけだったのに、身体のあちこちが凝ってただ歩くのにもぎくしゃくする。
 加えてこの寒さだ。アスファルトには霜が降り、水溜りには氷が張っているから、気を付けて歩かねば滑って足を取られる。
 白い息を吐いて、自分のアパートの部屋を見上げた。コンビニに寄って温かい缶コーヒーでも飲もうかと思ったが、すぐに思い直して家へと急ぐ。
 サンジなら、もうとっくに起きているだろう。帰りは昼前になると言っておいたから、朝寝坊でもしているかもしれないが、それならそれで起こさないように隣に潜り込めばいい。
 声を掛けず、鍵だけ回してそっと扉を開ける。すぐ目の前にある台所に、サンジの姿があった。
「わ、びっくりした」
「起きてたのか。ただいま」
「おかえり」
 いつもなら驚いて羽根を飛び散らせるところだが、今日のサンジはどこか違っていた。
落ち着いた仕種で振り返ると、少し困ったように首を傾げる。
「早かったな、ちょっと作業してんだ悪い」
 なぜ謝るのかと思い、すぐにその原因に気付いた。部屋の中が寒いのだ。暖房を点けていない。
「チョコレート扱ってっからさ、寒いだろ」
 なるほど、台所の狭い作業場には大理石の麺台が出され、振り返って話をしながらも手は忙しなく動いていた。
 元々サンジは寒がりだから、こんなに寒い朝は起きると同時に暖房を点ける。けれど今日は作業を優先しなければならないからと、こんなに朝早くから暖房も点けず寒い部屋の中で頑張っていたのだろう。
 そこに、冷えて疲れて帰って来たゾロが現れたものだから、困っている。
「別にいいぞ、このままで。とりあえず顔洗って寝る」
「そうしてくれ、すまねえなあ」
 サンジはそう言って、すぐに作業に集中した。ゾロはなぜか足音を忍ばせて、そのまま洗面所に直行する。
 昨夜は雪がちらついた程度で、泥跳ねや雨の飛沫はなく汚れなかった。けれど部分的に蒸せて汗を掻いたから、着ていた服はすべて丸洗いコースだ。
 ジャンパーを脱いで作業着を脱いで、セーターにシャツにヒートテック・・・と、まるで脱皮するように順番に脱いでいく。

温かくしないといけないからと、サンジにあちこちカイロを貼られた。お蔭でさほど寒い想いはしなかったが、それでもどこからかひたひたと染み込んだ冷気で関節は強張り、つま先は冷え切っている。
 熱い湯で軽くシャワーを浴び、ジャージに着替えると気分までさっぱりした。やはり家はいい。
 台所では、サンジは相変わらず作業に没頭していた。邪魔をしないように、再び足音を忍ばせて後ろを通り過ぎ、冷蔵庫を開けビールを取り出す。一口飲んで踵を返し、肩越しに手元を覗き込んだ。
 サンジは大理石台に流し広げられたチョコレートを、器用な手つきで掬ってはまとめ、また混ぜては広げている。大胆な動きなのに無駄がなく、チョコレートの一筋も残さない。
何度か同じような手順を繰り返してから、加減を見るように掬い取ってうんと頷いた。
 なにをしているのかゾロにはさっぱりわからなかったが、まさしく職人技だと思った。なにより、こんなに真剣な顔付きのサンジを見るのは初めてだ。
いつも料理をしている時は、いかにも幸せそうで鼻歌なんかも口ずさんで微笑んでいるのが常だった。
けれど今は、怖いほどに真剣な眼差しで作業に打ち込んでいる。妥協を許さない、プロの目だ。
――――こんな一面も、あったのか。
とぼけた男に見えて、実はあひるだったことには驚いたが、まだまだサンジには隠された面があるように思う。きっとこの先もずっと、一生一緒に暮らしても、全部を見つけきれないだろう。
 けどそれは、多分お互い様なのだ。
 もっと作業を見ていたかったが、なにせ眠い。邪魔をしないように静かに部屋に引っ込んで、布団を被って横になった。先ほどのサンジの横顔を思い浮かべる間もなく、秒速で眠りに就いた。





「ゾーロ」
 甘い匂いが鼻孔を擽り、ゆっくりと覚醒する。
 カーテンの隙間からオレンジ色の光が漏れていて、ああ夕方かとすぐにわかった。
「…よく寝た」
「気持ちよさそうに寝てたぞ。起こすの可哀想だったけど、今夜もバイトだろ」
「おう、助かった」
 髪が生乾きのまま寝てしまったせいか、枕の形に押し潰されて毛先だけが変な方向に立っていた。まあ、バイトではヘルメットを被るから、別にいい。
「飯作ったぞ」
「おう」
 寝ぼけ眼のまま立ち上がり、裸足で台所に入る。
 帰って来た時とは打って変わって温かな部屋の中、料理の匂いと共に甘ったるい匂いに満ちていた。
「腹減った」
「そりゃよかった」
 食卓には早めの夕食なのか遅めの昼食なのか、よくわからないが美味そうな料理がずらりと並べられていた。
 いただきますと手を合わせ、飯を掻き込む。
「作業は、終わったのか?」
「おう、あれからすぐ終わった。ありがとうな」
 それならばこれはなんだ・・・とばかりに、ブイブイ唸りながら稼働するオーブンに目をやる。赤々と照らし出された庫内には、ターンテーブルにたくさんのなにかが並べられ、ゆっくりと回っていた。
「これは焼き菓子だから、部屋が暖かくてももういいんだ」
「なんか、惣菜屋でイベントでもやるのか?」
ゾロが素で聞いたら、サンジは目を丸くした。それがいかにも、驚きと憐れみを綯い交ぜにしたような…ぶっちゃけアホの子を見るような目つきだったので、むっと来る。
「なんだよ」
「バレンタインだよ、ゾロ」
「…ああ」
 言われてカレンダー見れば、なるほど今日は二月十四日だった。
 明け方までバイトでコンビニにも寄らず、今日は大学にも行っていないからまったく気付かなかった。高校までは、必ず紙袋を持参しないと後々困る日だったなとも思い出す。
「もう、お惣菜のおまけに付ける分は全部できて、配り終えたんだ。先着順だったけどあっという間だった」
「ほお」
「んで、後は管理人さんとかコンビニの店長とか、ウソップとカヤちゃんとかにもあげた」
 どうやらゾロが寝ている間の今日一日は、チョコ三昧だったらしい。
「バレンタインってのは、女から男にチョコやる日じゃなかったか?」
「いいんだよ、好きな人にいつものお礼と感謝をこめてチョコをあげる日なんだから」

なんのかんの言って、自分が作ったチョコを人に堂々とあげらえるのが、嬉しくて仕方ないのだろう。
こうしていると、普段のサンジとまったく変わらない。いかにも楽しそうに幸せそうに、料理を作って人に食わせる。先ほどの、声を掛けるのも憚れるような真剣な横顔とはまるで別人だ。
「さっきの、な」
「ん?」
「チョコをこう、捏ね繰り回してただろうが」
「ああ」
 サンジが、頬杖を着いたまま笑う。話を聞いてやってると言う風で、ちょっとお兄さんっぽい。
「あれはなんだ?いつもと違う気がしたぞ」
「うん、あれはねチョコレートのちょっとした扱いだよ」
 そう言って、両手を組んで顎を乗せた。
「ジジイにね、習ったんだ。バラティエにいた時」
「ああ――――」
 バラティエのオーナー。サンジの命の恩人だ。
「チョコレートはこうしてテンパリングするって、基本的に人には物を教えない人だったらしいけど、俺にはいろいろ教えてくれた。すっごい厳しくて、すぐに蹴られたりしたけど、でもたくさん教えてくれた」
そりゃあ、人じゃなくあひるだったらちゃんと教えてあげなきゃと、思うかもしれない。
「じいさんの、置き土産か」
「…ん?」
 意味が分からなかったらしい。サンジは首を傾げて、ゾロを見つめた。
「お前に残してくれたってことだろ。料理の腕も、社会の馴染み方も、人との付き合い方もじいさんが全部。そのチョコの味も、そうだ」
 ゾロがそう言うと、サンジはくしゃりと顔を歪ませた。まるで泣き出しそうなほど目を萎ませて、けれどふんわりと花開くように笑う。
「うん、そうだな」
 その時、チーンとオーブンが鳴った。サンジは素早く立ち上がり、中を覗いてから扉を開ける。
「うん、いい感じ」
 洋酒の混じった甘い香りが立ち上った。中に入っているのはチョコレートケーキだろうか。ナッツがふんだんに乗っていて、見た目にも実に豪勢だ。
「すげえな」
「だろ?冷めたら早速持っていく」
「――――は?」
すっかり食べる気でいたゾロは、ぎろりと目を剥いてサンジを振り返った。それに、ぎょっとしたように首を竦めている。自覚はしていないが、相当凶悪な表情だったらしい。
「あ、ゾロもこれ食いたい?」
「そりゃあ食いたいが…つか、これ俺のじゃねえのか」
 愛されてる自信があれば、胸に湧いた疑問など躊躇なく口にできる。サンジも、別にその辺のことは頓着しなかった。
「違うよ、これはトラファルガー動物病院に持ってく分。ローもペポも、ああ見えて甘いもの大好きなんだ」
 ―――あそこか!
 そこはノーマークだったと、なぜか悔しい気持ちでゾロは歯噛みした。こんなに美味そうなのに、よそに掻っ攫われるのは残念でならない。
「ゾロにはまた、別の日にでも焼いてあげるから」
 今日はこれでおしまいと、ケーキクーラーの上に乗せて、再び食卓に戻った。
「ゾロの分は、朝仕込んだのがちゃんと冷蔵庫の中で冷えてるから。今食う?」
「…いや、今日帰ってからでいい」
 今日のバイトは、ぎりぎり今夜中に帰れるはずだ。いまさら十四日に拘ることもないだろうが、バレンタインと聞いてしまっては看過できない。

「じゃあ、今日帰ってきたら二人で食べような。待ってる」
「いや、朝からいろいろ頑張って疲れただろ。先に寝てていいぞ」
 そう言うと、サンジはふふんとまた勝ち誇ったような笑みを浮かべて胸を反らした。
「明日は、惣菜屋も休みなんだ。ゆっくり朝寝できるから」
「ああそうか、そういや俺も休みだったな」
お互い学業とバイトに忙しく、なかなか一緒の時間が取れない。だから月に一度はきちんと示し合わせて休みを作っていた。明日がそうだ。
 せっかく一緒の休みなんだからとたまには出かけたり、または何もしないで丸一日まったりと部屋で過ごしたり。
どちらにしろ、ゾロにとって楽しみな日となる。



「じゃあ、行って来る」
「俺も一緒に出る」
 完全防寒でモコモコに着込んだゾロと、マフラーを巻いただけのサンジは揃って部屋から出た。
 自分たちは鼻が麻痺してわからなかったが、アパートの階下の方まで甘い匂いが漂っていたらしい。
扉が開くのを待ちかねたように、あちこちの部屋からなにがしかの用事を作って住人達が出てきた。
「あ、お掃除お疲れ様です」
「お疲れ様ですー」
「やーちょっとクリーニング溜まっちゃって、もうすごい荷物で」
「大変ですねえ」
 ゾロが見れば、明らかに挙動不審な男達が、いかにも忙しそうに廊下を掃除したり自転車置き場を整理したりし始めていた。
 サンジは通りすがりに挨拶しては、手に提げた紙袋から小さな包みを取り出して手渡す。
「お疲れ様です、これチョコマフィンなんですけど、よかったらどうぞ」
「や、いいんですか?ありがとうございます」
 つまらないものですが、こちらの方もどうぞ〜と、すっかりチョコ配り状態だ。
 ―――お前ら絶対、チョコもらうつもりで用もないのに出て来ただろう。
 ゾロはそう思ったが、怒るのも大人げないので黙って見ていた。そんなゾロの目線が怖いのか、男たちはチラチラと様子を窺いながら、チョコを貰うと即座に部屋に戻っている。
「このアパート、こんなに人がいたんだな」
「学生街から近いし、家賃安いしな」
 かくいうゾロも、隣のウソップも大学生だ。自然と、同じような年代の者が一時的に集まる寮のような場所になっている。
 管理人や店長にはもう渡したと言っていたので、サンジとは駅前の交差点で別れた。
 これからトラファルガー動物病院に行って、お茶でもしながらひとしきり話をしてくるのだろ。ペポはああ見えてお茶を煎れるのが上手いと言っていた。今度ゾロも来ればいいのにと誘われたが、用もないのに動物病院で患畜に囲まれて甘いものを食べるのは、気が進まない。
 ちょっぴり面白くない気分で、ゾロはバイトに向かった。



 昼間の匂いがまだ残っているのか、夜更けにアパートに帰るとまだ周囲はほのかに甘かった。
 部屋には明かりが点いていて、ドアを開けると同時によく温まった空気が外へと流れ出す。「おかえり」の声が嬉しい。
「飯食った?」
「弁当が出た。けど、うどんでも食いたい」
「OK」
「それと、チョコ」
いかにも、チョコを目当てに今日一日バイトに励んできましたと、言わんばかりのタイミングでダメ押しをしたら、サンジは腹を抱えてケラケラ笑った。
 笑いながら、目尻に浮かんだ涙を指で拭い取って、そのままゾロに抱き付く。
「もちろん、お前のチョコは大事に大事にとってあるから。まずは風呂入って温まれ。すっげえ冷てえ」
 すっかり冷え切っていると、ごわごわのジャンパーの上から抱き付かれ、ゾロは勿体ないとばかりにその場でジャンパーを脱ぎ捨ててサンジの身体を抱きしめた。
「お前はあったけえ」
「天然100%ダウンだから」
 ―――自虐か?自虐ギャグか?
 目が点になったゾロの腕の中から、サンジは笑いながらするりと抜けだしてそのまま回れ右をさせる。
「まずは風呂入ってこい。それからうどん、それからチョコ」
 そうして俺。
 最後のセリフを聞き返す前に、とっとと風呂場に蹴り入れられてしまった。
風呂上がりのうどんは身体が温まり、洋酒が効いた一粒チョコは心まで蕩けるように甘かった。
 100%ダウンなサンジを抱いて眠る夜は穏やかで、朝が来ても安心してまどろめる至福の休日だ。
 チョコ作りの疲れが出たのか、サンジはその日、ずっとあひるのままだった。
 けれど、ゾロの傍で無防備に、安心してあひるでいられるサンジが愛しくて、ゾロにとっても幸せな幸せな一日だった。



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