■あるひあひるよ




朝からひどい筋肉痛だった。
日常的に身体を動かしているゾロが筋肉痛を経験することなど滅多にない。
と言うか、こんな痛み方は初めての経験だ。
手足が軋むようだし、全身がなんともだるくて重く感じる。
講義を聴いている間はぐっすりと眠ったが、目を覚ましたら今度は激しい頭痛に苛まされた。
目の前がぼうっとして頭がふらつく。
隣に座っていた学生が身を引きながら「大丈夫か」と気遣ってきたが、動けば治ると答えてそのままバイトに向かった。
バイト先で、店長はゾロの顔を一目見るなり「帰れ」と言い放った。
そして現在、ゾロは部屋の中で一人で寝ている。

電車を乗り継ぎアパートまで帰る過程を、ゾロは殆ど覚えていない。
もしかしたら毛玉がいるかもとの考えもなしに無意識にドアを開け、靴を脱いで部屋に上がった。
綺麗に畳まれた(ゾロは畳んでいない)布団をもそもそと敷き直し、上着だけ脱いで潜り込む。
そのまま寝かけて、はっとして顔を上げた。
その動作だけで頭を抱え込みたくなるほどに、痛い。

―――毛玉は・・・
店長が言うようにインフルエンザとやらだとしたら、毛玉にうつすことだけは避けなくてはならない。
毛玉にウィルスがうつるかどうかさだかではないが、なるべく危険からは遠ざけてやらないと。
肘を着き身体を起こすと、腕が奮えていることに気付いた。
なんたる体たらく。
熱ごときでここまで衰えるとは。
己を叱咤するも、実際には物をきちんと考えられないほどに朦朧としていた。
視線をめぐらしても毛玉らしき白が見付からない。

今日も確か、日の当たる場所に座布団を置いてそこに寝かしてきたはず。
丸まった毛玉。
ふかふかの、真っ白な毛玉。
窓から差し込む陽射しを受けて、そこだけ輝いて見えていた毛玉。
その毛玉が、いまは部屋の中にいない。
いないのなら、それでいい。
ゾロはほっとして、そのまま倒れこむように枕に突っ伏し眠ってしまった。

   * * *

途中、ガタガタと歯の根も合わないほどの寒さに見舞われた気がする。
その後は身の内から火を噴くほどに熱く、息苦しかった。
そんなさなか、ひやりと額が冷えた。
心地よい冷たさは火照った頬をゆっくりと撫で、髪を掻き上げ、汗に濡れた首筋を拭ってくれる。
乾いて罅割れた唇がしっとりと湿らされ、無意識にその潤いを追い掛けて首をめぐらした。
瞼が重くて目が開けられない。
絶え間ない頭痛はまだ続いている。
頭を中心にして世界がぐるりと回っているような不快感の中で、首の後ろに添えられた腕だけが確かなもののように思えた。

ゆっくりと身体を起こされ、口元に硬いものが押し当てられる。
流れ込む液体が口端から零れると、乾いたタオルがすぐさま吸い取ってくれた。
こくこくと、腫れた喉を上下させながら少しずつ飲み下す。
もういいと舌で塞き止め唇を閉じると、ぎこちない動きで力が抜けた頭を横たえた。
再び、冷えた指先がゾロの額に押し当てられる。
頬に、鼻筋に、唇に。
呼吸を確かめるように、迸る熱を吸い取りたいと願うように。
優しくやわらかく、幾度も触れる指の感触に溺れながらゾロは再び眠りに就いた。

   * * *

次に目を覚ました時には、どこかすっきりとした目覚めだった。
頭は重いが痛くはない。
身体も軋むがだるくはない。
布団から起き上がって伸びをして、常にない爽快感に息を吐く。
丸一日眠っていたのか、時計は翌日の午後だった。
外は真っ暗で雨さえ降っていたが、気分は実に爽やかだ。
いい匂いが鼻を掠め、立ち上がってキッチンに向かう。
歩くとまだふらつくが、不快感はないからもう大丈夫だろう。
コンロには土鍋が置かれたいた。
蓋を開けてみれば、ふわんと湯気を立てて雑炊が現れた。
ちょうどよい具合に冷めて、実に美味そうだ。

食欲は戻っていた。
鼻水も出ないし咳もない、喉もそう痛くない。
風邪だったのかインフルエンザだったのか、今となっては判別が着かなかった。
とは言え、薬も飲まず一晩寝ただけでここまで楽になったのなら、インフルエンザではなかろう。

ふと思い出して、バイト先に電話した。
昨日追い返されたのとは別のところだ。
無断欠席になってしまった。
今さらながら詫びを入れると、先方はゾロが熱を出していたことを知っていた。
夕べ、遅れているからと携帯に連絡を入れたら家の人が出たと言う。
「うつされちゃ困るから、今週いっぱい来なくていいよ」
そう言われて、神妙に頭を下げつつ通話を切った。

家の人―――毛玉だろうか。
振り返ると、毛玉はいつものように座布団の上で丸くなっていた。
相変わらず顔を見せない。
首を捻って丸くなって、白い毛羽を上下させる呼吸だけが生きている証のようだ。
その背を撫でようとして手を伸ばし、止める。
インフルエンザだろうが風邪だろうが、毛玉にうつしてはいけない。
あれほど親身に看病を受けたのだから、うつるならとっくにうつってしまっただろうが。
毛玉が熱を出したら、どうなるだろう。
そう考えると、柄にもなくふあんになった。
やっぱり、極力毛玉には近付かない方がいい。

遠くから遠慮がちに「ありがとう」と囁いて、ゾロはありがたく雑炊をいただいた。



END


あるひあひるよ(ありがとう)

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