■あるひあひるの




風呂場にシャンプーが置かれ、洗面所に歯ブラシが増えた。
よくよく気を付けて見てみると、洗い桶の中にお揃いのマグカップが伏せられその隣には夫婦茶碗まである。
小ぶりのフライパンや片手鍋と言った調理器具もさりげに増えていた。
手拭きタオルは常に取り替えられて清潔だし布巾なんかも干されていて、ゾロが一人で暮らしていた無機質で殺風景だったキッチンとは大違いだ。
今も一人暮らしに変わりはないのだが。

「ふむ」
物が増えるのは構わないが、これらの費用をどこで捻出しているのだろう。
いかに毛玉と言えど、一方的に支出の負担を掛けるのは気が引ける。
と言う訳で、ゾロは昨日貰ってきたバイト代の中から今日必要なだけの金を抜き取り、財布をそのまま食卓の上に置いた。
このままでは忘れ物と思われるかもしれないと気を利かせ、チラシの裏に「生活費」と書いておく。
毛玉に字が読めるだろうかと一瞬危惧したが、以前にも冷蔵庫の中のデザートでやり取りは成功していたと思い出した。
そもそも買い物ができるのだから、生活能力のある毛玉だ。

 
  * * *

今日の夕飯はなんだろうと、楽しみに思いながら家路に着くのが日課になった
アパートの前まで来ると、献立が推察できるほどにいい匂いが漂っている。
たまにすれ違う大家さんや隣の美大生から、今日の毛玉情報を得られるのもありがたい。
「ただいま」と声を掛けて部屋に入る。
予想通り、今夜はカレーだった。
炊飯器を覗くと、白米が炊いてあってにんまりする。
いかに凝った豪勢なカレーであろうと、サフランライスとかはゾロは苦手だ。
普通のごはんに大盛りカレーが一番美味い。
揚げたてのフライや半熟卵が添えてあって、自由にトッピングできるらしい。
ゾロはいそいそと手を洗い嗽をして食卓に着く。

今朝置きっぱなしだった財布が、そのままちょこんと置いてある。
その下にはレシートが敷いてあって、今日の日付の明細が並んでいた。
毛玉はなかなかの買い物上手らしく、あちこちの店に寄っては安い材料を選んで買っているらしい。
時系列で眺めていると、毛玉の動きが見えてくる。
夕方には隣町の商店街まで足を運んでいて、玉ねぎと里芋と人参を買っていた。
大きな荷物を提げて帰ってくるのは、さぞかし重かったことだろう。
毛玉の一日の足跡を辿りながら摂る夕食は、一人きりだけれどどこか賑やかで美味かった。

  * * *

「行ってきます」
いつものように声を掛け、部屋の鍵を閉める。
階段を降りていたら、帰ってきたウソップと行き会った。
「おう、今からバイトか?」
「ああ」
「お疲れさん」
今日は毛玉情報はないかと名残惜しそうに振り返ると、ふと忘れ物に気付いた。
バイト先の上司が印鑑持って来いと言っていた気がする。
取りに帰ろうと踵を返し、ウソップの後を追い掛けるようにして戻る。
「どうした忘れもんか」
「ああ」
じゃあなと部屋に入ったウソップを追い越し、自分の部屋の前に立った。
ドアノブに鍵を刺そうとして、動きを止める。

部屋の中から気配がする。
耳を澄ますと、自分の立ち居地の真向かいにあるキッチンからコトコトと音が鳴った。
続いて水道の蛇口を捻り、水が流れ落ちる音がする。
さらに待てば、小さな鼻歌まで聞こえてきた。
ゾロがほったらかしにしてきた朝食の後片付けが、始まったのだ。

「―――・・・」
いま扉を開けたら、そこに毛玉がいる。
噂の金髪スレンダー美人(でも男)
ウソップも大家さんも、コンビニ店長も会って言葉を交わしているのに、ゾロだけが知らない毛玉の正体。
いま、この扉を開けたらそこにいる。



ゾロはドアノブを握った手を、静かに離した。
足音を立てずに後退り、そのままそっと背を向ける。
かすかに響く鼻歌を耳に残しながら、ゾロはそのままバイトに出かけた。
印鑑は、また今度持っていけばいい。


END



あるひあひるの(正体見たり?)

back