■あるひあひるさ



「さあ、外から戻ったら手を洗って嗽をしろ。常識だぞ」
寒いからドアを閉めろ、突っ立ってないでとっとと上がれの後にも、小言が続いた。
ゾロはそれらのすべてにいちいち「ああ」とか「おう」とか返して、素直に従う。
洗面所のタオルは洗濯されたものに変えてあった。
いつものことだ。
ゾロが一人暮らしだった頃は、一度タオルを掛けたらずっと同じものを使い続けていつの間にか中心部分が真っ黒に染まっていたっけか。
ある日気付いて洗濯機に放り込んだら、それからはタオルを掛けるということを失念してずっとズボンの太股辺りで拭いて終わらせていた。
なんとなく、そんなことを懐かしく思い出したりして。
いや、今でも一人暮らしに違いはないのだが。

「今夜はすき焼きだぞ」
サンジ(恐らく)は、菜箸でちょちょいと鍋の中を整え、取り皿にパカンと生卵を割り落とした。
「冷蔵庫からビール出せ、熱燗のがいいか?」
「いや、ビールでいい」
そう言って冷蔵庫の扉を開けてから、振り向いた。
「お前も飲むだろ?」
「おう、ほら早く閉めろ。冷気が漏れる勿体無え」
とりあえず片手で持てるだけビールを出して扉を閉める。
いつもは使わないグラスなんてものもテーブルに用意してあったから、二人分を注いだ。
「よし、食おうぜ」
先に座ったサンジに倣い、ゾロも向かい側に座る。
ゾロの手元からグラスを取るついでに、サンジはカチンと軽くかち合わせた。
「乾杯」
「乾杯」
なににだ?とは聞かない。
ゾロにとっては、めでたき日だ。

「あんまり炊きすぎっとまずいぞ、これから食え」
サンジは皿に形よくすき焼きを取ると、ゾロに手渡した。
軽く会釈して受け取り、箸を付ける。
美味い。
やはりとても美味い。
肉は柔らかいしネギは甘味があるししらたきは舌触りがよく焼き豆腐には味が染みている。
なにより、目の前に朗らかな笑顔がある。
「クソ美味えだろ?」
「ああ、美味え」
ゾロはビールで喉を潤しながら、ガツガツとすき焼きを食べた。
サンジもゾロに負けじと大口で頬張り、モグモグと咀嚼して頬袋を膨らませている。
「もっと食え、肉投入」
「しいたけどこ行った」
「生牡蠣入れてみたんだけどー」
「悪くねえな」
二人で一つの鍋をつつき、時に黙ってじっくりと味わう。
グラスに二杯目のビールを注いだ時点で、サンジの頬は赤く染まっていた。
「酒、弱いのか」
「んなことねえよ」
そう言う口元が、拗ねたように尖っていた。
これは相当酔いが回ってきているようだ。

一頻り食べた後、まだ食べ続けるゾロを置いてサンジは懐から煙草を取り出した。
「・・・ちょっと、いいか?」
「ああ」
帰宅した時の匂いで、毛玉が喫煙していることには気付いていた。
ゾロ自身は吸わないが、特に他人が吸っていることに不快感を覚えないから気にもしない。
サンジはカチッとライターで火を点けると、煙草の先を細かく揺らしながら煙を吸い込み、ふうと長く吐き出した。

「あのさあ」
「ん?」
「てめえ、俺のこと聞かねえの?」
「―――・・・」
そう言えば、尋ねるのを忘れていた。
てめえは誰だとか、何ものだとか、毛玉かとか。
いや、毛玉呼ばわりしていいのだろうか。

ゾロが今更なことを逡巡しているのに、サンジはどう捉えたか緊張した面持ちでテーブルに手を掛けた。
「あのさ、俺、実は隣に住んでるんだ」
「・・・は?」
ゾロは初めて、ここで驚きを顕わにした。



END


あるひあひるさ(現れた)



back