■あるひあひるだ




再び目を覚ますと、部屋の中はいい匂いで満ちていた。
みそ汁に卵焼き、アジの開きと菜浸しに漬物が食卓の上に置かれている。
ゾロはむっくりと起き上がり、それらを確認してからはっとして布団を見た。
起き上がった形のままに、布団が捲れている。
その中に毛玉の姿はない。

首を巡らして探すと、部屋の隅、カーテンの隙間から朝日が差し込む畳の上にいつもと変わらぬ毛玉がいた。
丸まって首を無理やり胸元に押し込めたような、ふかふかの白い毛玉。
「おはよう」
挨拶して、その背中をそっと撫でる。
温かく柔らかく、呼吸に合わせて僅かに上下していた。
夕べは確かに、この呼吸音を間近で聞いていた気がする。
目が覚めたら腕の中にいて、毛玉と同じような白い顔が安らかに目を閉じていた。
金色の髪も、滑らかな肌も、かすかに煙草の匂いがする吐息もすべて確かにあった。
―――ような、気がする。

「夢、だったかな?」
ゾロはバリバリと後ろ頭を掻いて、ともかく折角の朝食が冷めない内にと顔を洗いに洗面所に入った。
なんとも、狐に摘まれたような気分だ。


世間はホワイトデーだと浮かれていた。
バレンタインデーより派手ではないが、それなりに浸透して来ているのかコンビニでも街頭から覗けるショップ内でもやたらとカラフルな菓子が飾られている。
バレンタインがピンクと茶色なら、ホワイトデーは白と青がイメージカラーか。
なんとなく、毛玉のようだなと思いついてあれ?と首を傾げた。
毛玉は確かに色白だったが、髪が綺麗な金色だったのだから白と黄色のイメージだろう。
なのになぜか、青色が浮かんでくる。
少し灰色がかった、透明感のあるブルー。
一瞬寝姿を見ただけなのに(しかも寝ぼけていただけかもしれないのに)なぜそんな風に印象付いてしまったのだろう。
一人モグモグと咀嚼しながら首を捻り、ずずっと音を立てて味噌汁を啜る。
「ふはー」
湯気と共に息を吐いた。
美味い、ものすごく美味い。
けれど―――
「一緒に食った方が、もっともっと美味いのになあ」
何気なく呟いた言葉に、離れて丸まる毛玉の尾っぽが、ぴくりと動いたような気がした。

     * * *

バイト先ではもう大丈夫なのかと気遣われ危ぶまれ、結局は知恵熱だったんじゃないかと勝手に結論付けられてこき使われた。
身体を動かすのは好きだし、重労働は鍛錬の一種だと捉えているから文句一つ言わず黙々と働く。
家の中でじっとして毛玉と戯れているのもたまにはよかったが、こうして実際に身体を動かし汗を掻くと気分はすきっとした。
疲れれば疲れるだけ家に帰る張り合いが出るというものだ。

帰り道、いつものコンビニに寄りホワイトデーのギフトを一つ買った。
特にバレンタインに何か貰った覚えはないが、いま思えば夕食の後に小さなチョコレートのカップケーキが焼きたて状態で置いてあったのがそれだったのかもしれない。
だとすれば、やはりお返ししておくべきだろう。
レジに持って行こうとして、ふと他の商品にも目が行った。
乾燥するお肌対策の中に、つゆ艶リップの文字。
そう言えば、昨晩目撃した元毛玉はあれが夢でなかったとしたら、少し唇が荒れていたっけか。
こういうものを塗ったら、罅割れも楽になるんじゃなかろうか。
バイト前の先輩が荒れ性で、男なのにマメに手にクリームを塗ったり唇にリップを塗ったりしていたので、ゾロ的になんら抵抗感はなかった。
なのでそれも一緒にレジに持っていく。
「お、プレゼントのお返しかい。色男はスミにおけないねえ」
「一応、礼は必要だろ」
毛玉を通じて会話するようになった店長と、軽口を交わす。
毛玉が家に来るまでは、顔を合わせていても顔見知りとは認識しなかった相手だ。
そう思えば、大家も隣人のウソップも同じようなものか。
それが今では、日常的に言葉を交わす知り合い程度に昇格?している。
それは、相手から見ればゾロも同じことだろうか。
一人で暮らし一人で生きることをゾロは決して寂しいとは思わないが、今のように状況が変わったことが迷惑だとは感じなかった。

コンビニの袋を提げて階段を上がり、部屋の前まで来るともういい匂いが漂っていた。
今夜はもしや、すき焼きだろうか。
えらく奮発したなと感心しつつ、鍵を差して扉を開ける。
「ただいま」
いつものように声を掛けた。
「おかえり」
返事が戻って、びっくりして足を止める。

ドアを開けたまま戸口に突っ立って、台所に立つ人物を見た。
すらりと細い身体、横顔の半分を隠す長い前髪。
咥えタバコにおたまを持ったまま、その男はゆっくりと振り返る。
「さみーだろ、とっとと閉めろ」
片方だけ覗いた瞳は、少し灰色がかった青だった。



END



あるひあひるだ(やっと会えた)


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