Only guardian -6-


ふよふよと、黄色い蝶が舞い飛ぶ菜の花畑の真ん中で、ゾロはサンジを見つけた。
花に紛れるには放つ光が強すぎる金色の髪が、そこだけ蜜でも塗り込めたように艶やかに緑の茎の間から覗いている。
なんだか美味そうだなと、ゾロが最初に思ったのはそんな感想だった。
「…お前、何してんだ」
ゾロが声を掛けると、蜂蜜の塊みたいな子どもはびくりと身体を震わせて仰向いた。
その顔の左半分が青黒く腫れていて、ゾロはぎょっとして目を瞠る。
「どうした、怪我してんのか」
近付くと、子どもはしゃがんだまま後ずさりした。
子どもの頭上で、背丈より高い菜の花が揺れている。
黄色い色が鮮やか過ぎて、花影にある子どもの表情の暗さが際立って見えた。
「大丈夫か?」
「近付いちゃ、ダメだよ」
蚊の鳴くような声で、子どもは首を振る。
「おれに話しかけたら、怒られるよ」
「誰に」
「…おかあさん」
「誰の」
子どもはすっと顎を突き出すようにして、ゾロを示した。
「俺の?おふくろは、ンなことで怒らねえよ」
「…うそ」
子どもはそう言って、悲しげに目を伏せる。
「おれと一緒に遊んだらダメなの、おれに近付いてもダメなの」
「なんで」
「だっておれ、臭いし」
ゾロは、すんと鼻を鳴らした。
言われてみれば、どこか甘いような酸っぱいような匂いがする。
よく見れば子どもの髪は綺麗な金色をしているのに、あちこちで絡まったり引っ付いたりしていた。
服も煤けて破れているし、首元や耳の裏が垢染みている。
「なんともねえよ、俺も汗掻くと臭えぞ」
そう言うと、子どもはちょっとだけ笑った。
どこか痛いみたいな、不自然な笑顔だ。

「俺はゾロ、お前は?」
「…サンジ」
それが、ゾロとサンジの出会いだった。



ゾロが通い始めた小学校の通学路に、サンジの住むアパートがあった。
けれどサンジは夜遅くまで部屋に入れてもらえなくて、寒い日でも暑い日でも、雨の日でもあちこちをウロついて過ごしていた。
小さい頃は人恋しくて同じような年頃の子どもの後をくっ付いたり、親子連れに近付いたりしていたら警戒されるようになった。
誰もに遠巻きに見られ、臭いと詰られて初めて、自分が嫌われていると知った。
それからは、かくれんぼと称して一人遊びをしていた。
誰にも見つからないように、そうとは知らぬ相手を鬼と定めて、ずっと隠れて過ごすのだ。
だけどゾロに見つかった。
ゾロに見つかってから、サンジの世界は少し変わった。

ゾロは、サンジが臭くてもちょっと変な子でも気にしないでズカズカ近づいてくる。
時には、おやつの残りだとお菓子をくれることもあった。
宿題の笛の練習だと言って、ピープーとしか鳴らないおかしな音を聞かされたこともある。
「お前、学校来ないのか?」
「学校って、どうやったらいけるのかな」
「親に聞けばいいじゃねえか、この辺に住んでるなら一緒の学校だろ」
ゾロにそう言われて、サンジの胸はときめいた。
ゾロと一緒に「学校」とやらに行けるのなら、すごくすごく嬉しい。
まるで夢みたいに楽しい一日になるだろう。
そう思って、深夜遅くに部屋に上げてもらった時に母親に尋ねたら「面倒臭いこと言わないで」とあしらわれた。
それでも諦めず食い下がって「学校に行きたい」とねだったら、部屋にいた男に「うるせえ」と殴られた。
男は一度手を上げると気分が昂ぶるのか、暴力が止まらなくなる。
いい加減にしてよと止めようとする母親も足蹴にするから、サンジは泣いて謝った。
もう二度とうるさく言いませんと泣いて縋って殴られて、そうしてなんとか男を鎮めることができた。
今までもずっと、こんなことの繰り返しだ。
入り浸る男が変わっても、母親の態度もサンジの立場も変わらなかった。

学校が「夏休み」とかに入って、ゾロと毎日会えるようになるのかと思ったらそうじゃなかった。
ゾロは「田舎」ってとこに帰るのだと言う。
「土産買ってきてやっからな」
そう言って、ゾロはあっさりサンジと別れた。


サンジがいつもみたいに炎天を避けて公園の茂みの中に身を潜めているとき偶然、ゾロが乗った車が速度を落としてゆっくりと通り過ぎた。
運転してるのはお父さん、助手席にはお母さん。
後部座席にそっくりの顔をした可愛い女の子が二人。
そして真ん中にゾロ。
地図みたいなものを広げて喋りながら、大口を開けて笑っている。
その姿を木陰からじっと見送って、サンジはなぜだかとてもとてもどす黒い感情に包まれた。

――――いいな、ゾロはいいな。
あんなに優しそうなお父さんとお母さんがいて、お姉さん達もいて。
皆に囲まれて楽しそうに笑ってて、美味しいものいっぱい食べていっぱい遊ぶんだ。
誰もゾロこと臭いとか汚いとか言って嫌わないんだ。
おれとは全然、違うんだ。
いいな、ゾロは。

ゾロは、
ゾロなんか――――
――――酷い目に遭えばいい



「・・・あああ」
サンジは両手で顔を覆い、呻いた。
突然のことに、ゾロは驚いてその肩に手を掛ける。
「どうした、どっか痛えのか」
「・・・違う、違うんだゾロ」
口元を覆っていた手を握りしめ、悲痛な表情で顔を上げた。
「俺だ、俺のせいなんだ今までゾロが危ない目に遭ってたのは」
「ああ?」
「俺が、俺がゾロにヤキモチなんて焼いたから」
自分と比べてあまりにも恵まれた環境のゾロに嫉妬したから。
能天気に大口開けて笑うゾロの横顔が、憎らしかったから。
「ちょっとくらい酷い目に遭えばいいって、俺が思ったから――――」
だからゾロは、様々な不運に見舞われた。

サンジの決死の告白を、ゾロは笑って聞き流す。
「なに言ってんだ、んなことあるわけねえだろ」
「…だって」
「俺なあ、俺はずっとおまえを捜してたんだ」
ゾロは、まるで愛しいものでも見つめるみたいに優しい目で微笑み、サンジの肩を抱き寄せた。
「ガキん時、夏休みに田舎帰って土産買って戻ってきたら、お前がいなくなっててよ。近所の大人に聞いても誰も知らねえっつうし、お前が住んでた部屋とかも知らなかったし。学校にも結局一度も来ないまま転校したって話だった。もう、お前には二度と会えないのかと思った」
それが2年前、偶然病院で再会できた。
怪我をした後輩を見舞いに訪れた病院で、なぜか病棟からはほど遠い検査室の待合いにサンジを見つけた。

一度たりとも忘れたことなどなかった、蜂蜜色の髪も青白い肌も、空を写し取ったような瞳の色もそのままで。
それでいて、声を掛けたゾロを他人を見るより冷たい眼差しで無表情に見つめ直す。
「覚えてるか?俺だ、ゾロだって何度言ったって、お前はほんとに知らん顔だった。別人かと思ったがそんな眉毛ほかにねえし、絶対お前だ、間違いねえって」
そのときの光景を、今ならサンジもぼんやりと思い出せる。
なにか薄いフィルターを隔てたような感覚だ。
サンジ自身、相手がゾロだとわかっていたのに、その感情を表に出したり表情を変えたりすることができなかった。

「あんとき、あの婆さんに事情を聞いたんだよな」
サンジは親に連れられていろんな町を転々とし、9歳の時に保護された。
その頃の記憶は曖昧で、今となってもなにも思い出せない。
それから施設で育ち今はグループホームで暮らしている。
サンジは身の周りのことは自分ででき、日常生活を送るのに支障はない。
学習能力も高いが、なぜか感情が欠落していた。
言葉を話せても、会話することができない。
同じことの反復ばかりで、自分から何かを考え行動に移すということがなかった。
ただされるがまま、言われるがままに漫然と日々を暮らす。
幸い、保護されてからのサンジは周囲の人に恵まれ、手厚くケアされた。
それでも、彼の感情の発露は見られなかった。

「それがどうだ、お前はまるであのときに戻ったみてえに、こうして俺の目を見て話してくれるじゃねえか」
ゾロは感極まったようにそう言って、再びぎゅっとサンジを抱きしめた。
その力強さに安堵して、サンジもおずおずとゾロの背に手を回す。

サンジには、わかったのに。
ゾロの不運が自分の理不尽な八つ当たりのせいだと。
そうして、それを悔やんで勝手にゾロの傍に気持ちだけが残って、自分の心と身体がバラバラになってしまっていたのに。
それは全部、自分勝手なことでしかなかったのに。
なのにゾロは、そんな自分をずっと待っていてくれて、いま丸ごと受け止めようとしてくれる。
初めて出会った、あの時みたいに。

「…おかえり」
「ただいま…ありがとう」
ありがとう。
ずっとずっと、待っていてくれてありがとう。

じわっと、サンジの目が熱くなって視界がぼやけた。
見る見るうちに零れ落ちる涙が、ゾロの病衣の肩を濡らす。
涙と一緒に鼻水まで垂れてきて、サンジはもうどうしようもなくてひーんと声を上げた。
生身の身体に入ったのも、こうして涙を流すのも、久しぶりなのか初めてのことなのかわからないくらいすべてが遠くて。
それでいて、ゾロの身体も心も全部が一番近い場所にある。

「…ぞろっ、ぞろっ、ぞろ、がっ」
「ん?」
「ぞろが、いてっくれたのに…おれ、おれ一人で、自分だけ、一人ぼっちだと、思って…」
「ん」
「ぞろ、待っててくれたのに、ぞろのことなんて、全然考えなくて、気持ち…」
「うん」
「ぞろの気持ち、全然考えなくて、ごめ…」
「いいよもう」
ぐずる子どもを慰めるように、ゾロはサンジを膝の上に乗せてよいしょと抱え直す。
「帰ってきてくれたから、それで充分だ」
「――――う~~~~~」
夕食の配膳に看護師が部屋に入ってくるまで、ゾロはずっとサンジの背中を撫で続けていた。





「人は、自分で受け止め切れないほど辛くて悲しくて寂しい想いをした時に、自分の中から気持ちだけ離れてしまうことがあるんだよ」
くれはは、カウンセリングの時はいつもの乱暴な口調とは違い子どもに語りかけるようにゆっくりと話す。
「時には別の人格に成り代わって、辛いことを一手に引き受けてくれることもある。人の心ってのは深すぎて、まだまだわからないことがたくさんあるんだ。でも実際に、生霊だの呪いだのそんなものはあたしゃ信じられないね。ただ、こうしてあんたの瞳に光が戻ってきてくれたことは素直に嬉しい」
サンジの懸念をあっさりと否定してくれたが、それでもバカにしたり疑ったりはしなかった。
「多分、あんたの中に確かにあんたはいたんだよ。私達の言葉も届かないずっとずっと奥底で、ちゃんと周囲を見ていたんだろう。小僧が怪我をしてこの病院に入院した時、いつもは月曜日にカウンセリングを受けて家に帰るだけのあんたが、いつもと違う行動をした。その日がたまたま小僧の退院の日ではあったけど、あんたが自ら足を運んで入院している部屋に行ったなんて、それこそが劇的な変化だったじゃあないか」
サンジは、首を傾げてくれはを見つめ直す。
その時のことも、今ならまざまざと思い出せる。
ゾロが同じ病院に入院しているから、会いたくなったのだ。
自分から、会いに行きたくなったのだ。

「そして、ちょうど入れ違いになってあんたは小僧に会えなかった。部屋は空っぽだった。そしたらそこで諦めず、まだ間に合うと小僧を追い掛けた。それが、自分を取り戻せた瞬間だよ」
「…そう、なのかな」
「そうさ、今まで迷子になってたピースがかっちりと元の場所に収まったんだ」
「迷子に…」
俺はゾロより酷い迷子だったのか。
そう思ったら、くすっと笑みが零れた。

ゾロと出会ったあの日に咲いていた、黄色い花に似た色にしか憑り付けなかった迷子の生霊。
もしかしたら記憶違いかもしれない、単に、長い間見続けた悪夢だったのかもしれない。
けれど、確かに自分はずっとずっと彷徨っていた。

一人で楽しげに笑うサンジに、くれはも目元を和ませる。
「自分を取り戻せたのは、あんた自身の力だ。もう大丈夫だよ」
「…ありがとうございます」
後付けの理論を並べてすべては記憶違いだと言い切れなくもないけれど、自分の身体でものを考え行動するようになってから、サンジの意識は他のことを吸収することに忙しくなった。
ゾロの傍でゾロを守っていた日々を何度か思い返してみても、その度に記憶が薄らいでいく。
それでもいいか、とも思う。
だってサンジは、いまとても忙しい。

新学期が始まって一週遅れで、ゾロは無事学校に復帰できた。
月曜日のサンジのカウンセリングはその後も続いていて、それにゾロが立ち会うのも定番になっている。
ゾロの身体もサンジの心も目に見えて回復し、剣道の冬の大会には出場するゾロと応援に駆け付けたサンジがいた。





「ゾロの全快と、サンジ君の誕生日をお祝いして。かんぱーい!」
「かんぱーい!!」
ジュースが注がれた紙コップをかち合わせて、ナミ達が声を合わせる。
サンジもそれに笑顔で応えた。
まだ少し肌寒い3月の初めに、ゾロの家に集まってささやかな祝いの席が設けられた。
ルフィもウソップもナミも、ゾロの親しい友人達であり、サンジもよく見知った仲間だ。
それでも、ゾロに引き合わせた時は少し緊張して「初めまして」と挨拶できた。
「みんなのお陰で、うちの愚弟も無事進級できたわ。どうもありがとうね、特にナミちゃん」
くいなとたしぎも席に加わり、やれ唐揚げだのポテトだのと料理を運んでくる。
「これ、サンジ君が持って来てくれたミートローフ」
「お、美味そう」
「サンジ君、お料理が得意なのよね」
食べ盛りの高校生が、出された料理にわっと群がる。
そんな様子を、サンジはナミの隣で嬉しそうに眺めた。
「うん、来月から専門学校行くんだ。あと、住み込みでレストランに雇ってもらう」
「え、すごい。まだ16歳なのに」
そうか、今日16歳になったんだ…と改めて言い直して、おめでとうと笑う。
「お世話になってる施設から独り立ちする年齢だしね、雇ってくれる店が見つかってほんとにありがたい」
そう言って、くいな達に向き直った。
「コウシロウさんが紹介してくださったお蔭で、俺すごいお店で修行できることになりました。ありがとうございます」
「え、やだもう改まって」
「サンジ君の熱意があればこそ、よ。学校と仕事と両立は大変だろうけど、頑張ってね」
「はい!」
サンジは深々と頭を下げ、晴れ晴れとした表情で顔を上げた。
きっととても忙しくて大変だろうけど、それを上回るほどにワクワクする。
サンジはサンジの、“夢”を見つけられたから。

「なんせサンジ君はゾロの“大事な人”だからね」
「そうそう、堂々と宣言しちゃってくれたもんね」
からかう姉達を前にして、ゾロは動じない。
「そうだぞ、こいつは俺のもんだからお前らもちょっかい出すな」
「出さねえよ、俺にはカヤと言う彼女がいる」
「ししし、サンジが作る飯ほんとに美味いなあ」
過剰反応するウソップと我関せずのルフィの次に睨まれたナミが、心外そうに首を竦めた。
「そんなに警戒しなくても、第一サンジ君だってちゃんとわかってるっての」
ねー?と同意を促され、サンジは戸惑いを隠せない。
「え、や、わかってって…」
「サンジ君も、ゾロのこと自分のモノだって思ってるでしょ。勝手にやってればいいって話よ」
「えー」
「なんで不服そうなんだてめえ」
ドヤ顔で突っ込むゾロの脇腹に、肘鉄を食らわす。
「そもそもてめえがおかしなこと言うからだろうが!ナミさーん、俺誰よりもナミさんのこと大好きですよー!!ああでも、くいなちゃんもたしぎちゃんも、同じくらい好きー!!!」
「はいはい」
「あ、サンジ君ケーキも持って来てくれたのよ。もう食べようか」
「わーいケーキ!」
「うっしゃ、サンジのケーキ!!」
サンジの必死の抗弁などみんな聞き流し、新たに追加された見目麗しいケーキに歓声を上げる。
「自分の誕生日に自分でケーキ作るとか。いや、俺らは嬉しいけどよ」
ウソップの気遣い半分な突っ込みに、サンジは満面の笑みで応えた。
「俺にとっちゃ何物にも代えがたいプレゼントだぜ。俺が作ったケーキを誰かが食べてくれるんだ、こんな嬉しいこたァねえ」
「そうか、じゃあ遠慮なく!」
ルフィがそう宣言して一口でホールごと齧ろうとしたから、ゾロがぶっ飛ばしてウソップが死守した。
「みんなで仲良く分け合うの!」
「はい、もっかい乾杯。サンジ君おめでとー!!」
「おめでとー!!」

半年前までは想像すらしていなかった。
こうしてゾロと言葉を交わし、友達に囲まれ、誕生を祝ってくれる日が来るなんて思いもしなかった。
「――――夢みてぇ」
ぽつりと漏れたサンジの小さな呟きさえ聞き逃さず、ゾロが「ん?」と首を傾けた。
自分の声がゾロに届く。
その手に触れて、視線を合わせ、笑い合うことができる。
それだけで、こんなにも幸せだ。
「なんでもねえよ」
サンジはそう言って、大口を開けてケーキを頬張った。

これからはサンジが守らなくても、ゾロは一人で生きていける。
サンジもまた、悲しいことや辛いこと、危ない目に遭いながらも一人で生きていく。
そうしてお互いが、ずっと一緒に居られる努力を続けていくのだ。
共に生きるとは、そういうこと。

サンジの口端に付いたクリームを、ゾロが指で掬い取って舐めた。
ばか止めろよと赤くなって肘で突つき合う二人を、ナミとくいな達はサクッと無視し、ウソップは生暖かい目で眺めルフィは大きくゲップを漏らした。
誕生日祝いに中古で譲り受けたサンジのガラケーには、ゾロとお揃いのモリモリまりもんとクワ丸君のストラップが、二つ仲良く並んで付いている。



End


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