Miracle birthday
-2-

天井から吊られたランプがグラグラと揺れ、木の壁が軋む。

「これから夜に入って、ますます荒れると言っていたわ」
ロビンは動揺を隠さずチョッパーを見下ろした。
「この状況で、私はコックさんの身体にメスを入れることが怖いの」
正直な告白に、誰もが頷かざるをえない。

「動脈や関節のことなら少しはわかるわ。でも、私には今のコックさんの肉の厚みや胎児の位置、
 胎盤の有無も触れたとしてもわからない・・・」
申し訳なさそうに俯くロビンに、チョッパーは慌てて首を振った。

「そのとおりだよロビン!ほんと言うと俺だって、この手が無事だったとしてもメスを握るのは躊躇った。
 だって、本当にわからないんだ」
血を吐くようなチョッパーの叫び。
「俺、時期が来たら自然に産道が開いてくれたら・・・って、無責任なこと願ってた。それでもダメなら
 手探りでやるしかないって。だけど、こんなことを素人のロビンにさせちゃいけないんだ」

またぐらりと傾いで不気味に船底が鳴る。
「ロビンは考古学者だ。医者じゃない。俺が、俺が責任を持ってちゃんとやる!」
「いいえ船医さんは手を使ってはダメ!」
断固たる響きに、それでもチョッパーは怯まない。

「今なら俺の手は動く。今動かなくてどうするんだ?サンジと子どもの命を救えなくて、何が医者だ!」
「けれど今使ったら、その手は二度と動かなくなるわ!」
ロビンも負けずに大声を出した。
「ダメなの、今その手を使ってしまったら、神経は傷んでしまうのよ。もう二度とメスが握れなくなるわ。
 医者として致命的よ」
「けどっ・・・」
「まあ、待てよ・・・」
割って入った弱々しい声に、二人同時に視線を落とした。
ゾロの腕の中で、サンジが蒼褪めた顔のまま笑っている。

「あのよ・・・斬るんなら、専売特許がいるんじゃねえの?」
言われて二人顔を見合わせ、あっと声を上げた。
視線が集中した先で、ゾロはサンジを抱き締めたまま下を向いている。

「な?てめえ・・・呼吸が読める、んだろ?」
はあはあと荒い息の中でサンジは歯を見せて笑った。
「ついでに、ちょいと、斬ってくれや・・・」

ゾロはサンジの背中に回した掌をぎゅっと握る。
汗でしとどに濡れたシャツはくしゃりと手の中で丸まった。

「・・・な、ゾロ・・・」
それ以上言葉にならず、サンジはまた歯を食いしばって痛みに耐えた。
意識して呼吸をしようとしても、うまくいかない。
まさに襲い来る嵐のように絶え間なく容赦ない痛みの中で、サンジは気丈に笑みを湛えてゾロの腕を掴んだ。



「ゾロ・・・」
縋るようにチョッパーが声を出した。
だが、ゾロは視線を落としたまま静かに首を振る。

「ゾロ?」
「・・・ダメだ」
「剣士さん」
「ダメだ・・・」

大きく息を吐き、ゾロは強張った腕を上げて自分の額に当てた。
「ダメだ、俺は斬れねえ・・・」

「ゾロ・・・」
小さなサンジの呟きに激しく首を振った。



「無理だ、俺にはできねえ。いくら呼吸が読めても、腹の子の動きがわかったとしても―――」
ごくりと唾を飲み込む。

「俺には斬れねえ。てめえも、ガキも」
「なんでっ」
サンジが気色ばんで怒鳴る。
ゾロは眉間に皺を刻んだままオロオロと首を振った。



「俺の剣は、倒す剣だ。自分が強くなるために、相手を傷付け殺す剣だ。そんなものを・・・」
食いしばった歯の間から、信じられない言葉が漏れる。

「お前に、ガキ相手に振るえるか。俺は、生かすために使う剣なんざ知らねえ」
「こっの・・・」

がっと睨み上げたサンジが、片手で思い切りゾロの頬を張る。
ゾロはサンジを抱えたまま身体を傾けて、波に煽られた船が同じ方向へと揺れた。


「なにが、剣だ!俺あ、俺の手は料理する手だがな、てめえみてえなアホの一人くらい張り倒せる!」
ぜいぜいと息を切らしながらサンジが叫ぶ。
「てめえみてえな石頭殴ったって痛えだけだが、それでも俺はてめえに血だって見せられるぜ。
 てめえがあんまり阿呆だから。ちゃんと蹴りが出せるんなら蹴り殺してるところだ」

うっと呻いて床に手をついた。
肘がぶるぶると震え、汗に塗れた髪がやつれた頬に張り付いて光る。

「てめえの剣が殺しだろうが血塗れだろうが、今てめえに頼んでんじゃねえか・・・俺の、ガキの命を―――」
ふうと意識が途切れかけて、サンジは這い蹲ったまま額に床に打ち付けた。

「てめえができなくてどうするよ。俺のもガキのも、てめえに命預けんだよ。それで俺はいいんだよ」
「コック・・・」


またぐらりと船が揺れた。
外の状況は中からはわからないが。
かなり激しい揺れだ。
ルフィもウソップもナミも、懸命に頑張っているのだろう。






「チョッパー、麻酔を・・・」
「ゾロ!」
固唾を呑んで見守っていたチョッパーたちに薄く笑みを返すと、ゾロは和道一文字を手に取った。

「もうコックは限界だ。俺が斬る」
「ゾロ!」

チョッパーとてゾロの気持ちは痛いほどわかる。
いくら剣の達人とは言え、愛する者とわが子の命が掛かっている。
おいそれと刀を振るえないのは当然だ。
それでもゾロはやると決めた。
サンジが、そう決意したから。


「クソコック、覚悟しろよ」
「うっせー、死んだら親子で化けて出てやる」
笑えない冗談を吐いて、サンジは細い腕を投げ出した。

チョッパーの指示通りの分量の麻酔を、ロビンが素早く注入する。
「このまま血管を確保するわ。いざと言う時は輸血も必要ね」
「うん。後はゾロに任せる」

不意にピカリと空が光り、雷鳴が轟いた。
ほぼ垂直なまでに船が傾き、隅に置かれた籠や樽がゴロゴロと転がる。
遠く風の轟音とともに、ナミの悲鳴も聞こえたようだ。

「大丈夫、航海士さんにはルフィたちがついてる」
「ああ」

サンジのシャツの合わせを開いて、汗に濡れた丸い腹をロビンは丁寧に拭った。
消毒もろくにできない。
この狭い密室の中ですべてを迅速に行わなければ、感染症も引き起こす恐れがある。



麻酔が効いて来たサンジは、死人のように蒼褪めて横たわっている。
その目が穏やかに閉じられたのを見て、ゾロは刀を抜いた。

「とっとと出て来い、人騒がせなクソガキめ」



ゾロは一度深く呼吸をすると、目を据えて両腕を掲げた。




真っ暗な空は時折光る稲妻で、禍々しく照らし出される。
光より一拍遅れて轟く雷鳴に耳を押さえ、ナミは目を凝らし水平線を見た。

「ルフィ、もう少し舵を堪えて!もうすぐよ。もうすぐ嵐が抜け出せる!」
「ええ〜もうかあ〜」
「ええ、風が吹くの。ウソップ、帆を上げて!」
「今かよっ」
「今よ、さあ早く!」
千切れそうに風を孕んだ帆が、漆黒の空にはためいた。

その時――――



遠くに甲高い泣き声を聞いて、3人は一斉に空を見上げる。
「なんだ、ウミネコか?」
「この嵐にいるわけねえじゃねえか」
「でも確かに―――」

ゴウとすべての音を掻き消すかのように突風が吹いた。
吹き飛ばされぬよう慌ててマストに腕を巻きつけるルフィに、二人とも抱きつく。


「生まれた!生まれたんだ!」
ルフィの叫びにナミが目を丸くした。
「ああ、そう!そうなのね!」
「うおーーーっ、すげええええっ!」

急に目の前にしなやかな手が現れ、高々とVサインを見せる。
風に煽られて速度を上げるGMの行く手には、いつの間にか白い光が差し込んでいた。



「朝よ。嵐を抜けたわ。生まれたのよ!」
すべてを祝福してナミは手を叩いた。
ウソップも口笛を吹き、ルフィがくるくると身体を回転させ飛び上がる。

「生まれたぞ!ゾロとサンジの子どもだ、この船の子どもだ!」
声が嵐に吸い込まれ、波を掻き分け走るGM号の行く手が急に開けた。
朝焼けに包まれた穏やかな海が眼前に広がっている。


小さな船が歓声に包まれる頃、水平線の向こうにうっすらと島影が浮かびあがった。







島民よりも羊の数のが多いような、長閑な島だった。
晴れた日に窓の外を見ると、空の青と山肌の緑そして転々と散らばる羊の白しか見えない。
そんな穏やかな色彩の中で、GM号はチョッパーの休養も兼ねて1ヶ月停泊している。





太陽が西の空に落ちて、夕闇が静かに降りて来る頃、小さな街もまた夜に包まれる。
街灯すらろくにない蒼い景色を眺めながら、ゾロは静かに酒を飲んでいた。

先ほどまで派手な喧騒が響いていた部屋の中はひっそりと静まり、どことなく甘い匂いに満たされている。
てっきり眠っていると思った白い手が動いて、そっと布団を掛け直した。
そのまま起き上がり足音を忍ばせて近付き、ゾロの隣にゆっくりと腰掛ける。

「目、覚めたのか?」
「ああ、寝酒に一杯付き合いてえが・・・ダメだよな。」
薄く笑む口元をぼんやりと見つめて、ゾロは思い出したようにグラスに口をつけた。

「・・・どうした?」
気だるげに頬杖をついて見つめる、パジャマの袖口から剥き出しになった肘の白さがやけに眩しくて目を細める。


―――こいつを

ガラにもなく黙って見つめ続けるゾロを、サンジは居心地悪そうに身じろぎして睨み返した。
「あんだ、言いたいことがあんなら言え」
しっとりした雰囲気に似合わぬ喧嘩越しな口調にも動じず、ゾロはまた酒を一口飲んでグラスを置く。
口元に笑みを浮かべて頬に添えられた白い手に自分の手を添えた。

思わぬ行動に驚いたのか、目を丸くして固まったサンジの表情がおかしくて、また一人で笑いを漏らした。
「なんだなんだ。頭に何か涌いたのか?」


口を開けば憎まれ口しか叩かない男だ。
足癖が悪くて乱暴で、少しも素直でないくせに、誰よりも心根が優しい。

強く逞しいれっきとした男なのに、自分を受け入れて子を宿した。
死よりも不明確な自らの変調への恐れも乗り越え、新しい命を生み出した。



単純にすげーと思う。
信じがたい度胸と忍耐とでもって、こいつは奇跡を起こした。
あり得ない偶然と幸運と善意をもって、今俺の傍らにこいつと小さなガキがいる―――

「ゾロ?」

ほんの少し唇を尖らした、その顔はアヒルみたいだぞとからかいたかったが、うまく言葉が出てこない。






こいつを、失うかもしれなかった。

今、ベッドの中で眠る小さなガキも、共に闇に逝くところだった。
ここに生きて、いることすべてがあり得ない奇跡だ。
そのことに、感謝せずにはいられない自分がいる。




「あん時俺は・・・初めてしくじった時のことを考えた」
唐突なゾロの台詞に、サンジは首を傾けるだけで口を挟まない。

「今まで鷹の目に挑もうが、敵に囲まれようが、俺あてめえがしくじった時のことは考えたことがなかった。考えねえようにも
 してたと思う。がなあ、あん時は・・・」

思い出しても冷汗が出る。
己で斬るしかないのだと、文字通り追い詰められた気分だった。


「もしも、とかな。ガラにもなく色々考えちまった。そうしたら、動けなくなった」
あんなことは初めてだ、と照れくさそうに笑う。
サンジは半端に口元を開けたまま、笑い出しそうな泣きそうな、妙な顔つきで黙って見ている。

「別によ、てめえの命を顧みねえで敵と対峙すんのは、楽なもんだ。命懸けて戦って、負けるか。生きるか死ぬか。
 それだけだ。構わねえ。だが、他に命懸けるもんがあんなら、話は違う」
サンジの手に添えた掌を、ぎゅっと握る。
「ましてやてめえが心底惚れたもんを、てめえの腕一つで失うかなんて考えたら。俺あ、あんなに怖えと思ったことが
 今までなかった」

ああ、本当に怖かった。




サンジは笑おうと決めたのか、へらりと唇を歪めて視線を落とした。
けれどからかいの言葉は出てこず、吐息だけが深く漏れる。

「野望のために命懸けんのは簡単だ。だがな、死なずに勝つのは結構難しい」
今更なのに、ゾロはそんなことを呟いて笑う。
ああ本当に、こいつはなんて、頭が悪かったんだろう。

「鷹の目に今度出くわしても、俺は死なずに勝たなきゃなんねえ。怪我も負わず、どこも失わないで勝って世界一に
 なんなきゃなんねえ。・・・こりゃ結構難しいぜ」


そんなことを言いながらも、ゾロは酷く楽しそうだ。
何も失わずに強くなる。
壮大な目標に挑むことが、楽しくてならないのだ。

「なあ。俺はてめえが大事で、ガキが大事で・・・だから俺自身も大事になっちまった。守るってのはてめらだけじゃねえ。
 俺自身もだ。だから俺はもっともっと強くなんなきゃなんねえ」
「・・・俺一人だって、大丈夫だぜ」
つい、また憎まれ口が出てしまった。
あちゃ・・・と内心頭を抱えたサンジに、ゾロはそれでも余裕で笑っている。

「だから、だろが。てめえは一人ででもガキ抱えて生きていきやがる。それじゃ俺が面白くねえだろ。だから意地でも生きて、
 抱える気になってんじゃねえか。そう簡単にくたばってなんかやらねーよ。ざまあみろ」


なんなんだそれ。
そう言って、サンジはそう呟いて、それ以上声にならなくて片手で顔を覆った。

寝乱れた金髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて、その小さな頭を胸に抱きこむ。
尖った肩甲骨の窪みを何度か撫でて、両手でぎゅっと抱きしめても、サンジは嫌がらなかった。




もう何も失いたくはない。
俗世に執着して弱くなったのではない。
大切なものを手にしたからこそ、俺はもっと強くなれる。

だから―――


「もう、あんな思いは二度とごめんだ」
ゾロの呟きに、サンジは顔を覆ったまま小さく声を立てて笑った。

「二度目があるか、クソボケ腹巻」
「わかんねーだろうが。ここはグランドラインだぜ」




何故だか目を合わせないで。
それでも二人抱き締め合って、なんでもないことを静かな声で言い争う。





ささやかな夜の闇の中で、時折様子を窺うように白い月が雲から顔を覗かせていた。



    END