朝っぱらから耳につく吠え声がする。
うるせえなと舌打ちをしながら寝返りを打ち、朝日の直射を受けて顔を顰めた。
―――なんでカーテンが開いてんだ?
仰向けになったまま、まだ白い空をぼーっと眺めていると、畳を踏み締める振動が伝わった。
「風太、お待たせ」
ゾロの枕元を風を立てて通り過ぎて、縁側から降りサンダルを履くのももどかしそうに駆け寄るサンジの後ろ姿。
小さな風太はその足に飛び付こうとして鎖で引っ張られ、転倒している。
キャンキュンやかましかった声は、サンジが抱き上げた途端に止んだ。
「おはよう、もう朝だからいいよな」
誰に了解を得るでもなく風太に向かって呟いて、サンジは鎖を外した。
そのまま大切そうに胸に抱き、サンダルを脱いで片足を縁側に乗せ、ぴたりと動きを止める。
ゾロと目が合ったからだ。
「お、はよう」
「おはよう」
くわあと大きく欠伸をしながら伸びもして、ゾロは起き上がった。
「早えんだな」
「あー・・・天気、いいから」
言い訳ともつかないような歯切れの悪さで、サンジはこそこそと背を丸める。
柱時計に目をやれば、まだ4時半だ。
反対側の台所を見ると、和々への準備はすでに終わったのか台所が片付けられた形跡がある。
すでに朝食の支度までできているようで、とても早朝とは思えない雰囲気が漂っていた。
「あいつ、もしかして寝てねえのか」
一人口に出して呟き、まさかなと首を鳴らしながら布団から出る。
いつも通り寝た気がするが、なんとなく身体がだるい。
覚えはないが、夜中中風太が鳴いていて熟睡できなかったのかもしれない。
自分でさえそうだったなら、あのサンジではとても眠るなんてことはできなかっただろう。
洗面所で顔を洗って服を着替えている間、風太とじゃれているサンジに問い質すことはなく、ゾロはさっさと支度を
済ませると早朝勉強会のために緑風舎へと出かけた。
「んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
風太を片手で抱き、もう片方の手で小さな腕を取ってバイバイと振らせている。
なんとなく“妻子”に見送られているような気分になって、なんともむず痒い気分で軽トラに乗り込んだ。
勉強会中も生欠伸が絶えなかったゾロは、研修生達にまで散々冷やかされた。
飼い犬経験のあるものはすぐに話に飛びついて来て、最初の内は仕方ないんだとか、犬相手にやきもちを焼くことも
ざらにある、なんてことを真剣に論じ始める。
結局なんの勉強会なのかわからないほどに盛り上がって、定刻通り勉強会はお開きとなった。
「サンジさんが入れ込んでる姿って、なんとなく想像が付きますね」
コビーはこれから直で現場だと、おにぎり持参で緑風舎に来ていた。
ヘルメッポと二人で頬張りながら、研修生達の朝食用の味噌汁を分けてもらっている。
「大方、放っておかれて不貞腐れてんでしょ」
「なんだそれ、聞き捨てならねえな」
内心どきりとしながらも、ゾロは余裕の笑みを浮かべたまま視線だけでヘルメッポの軽口を制す。
それにも構わず、ヘルメッポは頬袋を膨らましながら一人頷いた。
「うちの兄貴は、子どもが生まれてから嫁さんが構ってくれなくなったって結構グチってたし」
「お前んとこの兄貴と一緒にすんなよ」
「それを言うなら、スモーカーさんのが身につまされるんじゃないですか?」
「寧ろ、たしぎの興味がガキに向かってくれる方が俺はいいんだが」
スモーカーの表情は切実だ。
「赤ん坊と嫁の両方を俺が世話することになるんじゃねえかと、そう思うとだな」
「・・・・・」
みな相槌も打たず沈黙のまま、気の毒そうに目配せし合う。
「まあ、その内慣れるだろ」
「そうですね、来たとこだからテンション上がってるだけですよ。また俺らも遊びに行かせてもらいます」
面白半分心配半分で見送られ、ゾロはさっさと家に帰った。
「おかえり〜飯できてんぞ」
いつもの調子で出迎えられた。
足元には風太が纏わり付いていて、一緒に玄関までお出迎えだ。
「・・・すっかり、家に上げてんな」
「留守番してただけだから、そんくらいいいだろ」
ゾロに指摘されると予想していたのか、若干ムキになって言い返して来た。
別にまあいいんだけどよと呟くと、なんだよと目に見えて不機嫌になる。
「いいんなら最初から言うなよ、俺だって悪いかなとか思ってんだからな」
口先を尖らせて、ぷいと横を向いた。
どうやら機嫌を損ねたらしい。
なんで逆ギレすんだよと思いつつ、俺も悪かったかなと殊勝にも反省した。
なんとなく、サンジと会話しつつも独り言が増えた気がする。
それが中途半端に耳に届いて、世間話や注意と言う形をとらずボヤきになってしまっているのがサンジの
気に障るのだろう。
「悪かった」
「・・・なんでっ」
弾かれたように振り向いたサンジは、鬼のような形相だった。
「なに簡単に謝ってくれちゃってんだよ。お前、謝るようなことしてねえだろ。悪いのは俺だろ」
開き直るとサンジは無敵だ。
その勢いに押されつつ、ゾロは苦笑が漏れそうなのを我慢して真面目な顔を作った。
「俺が中途半端に対応してんのが悪いっつたんだ。それも元々、犬の躾はちゃんとやらなきゃならねえって俺
自身の考え方と、お前の気持ちもわかるってえ情みてえなもんがぶつかってフラフラしてっからだ。俺もお前と
一緒で犬を飼うのも初めてだから、どうかなって色々迷ったりしてるんだよ」
サンジは虚を突かれたような顔をして黙り、すぐににへらと口元を緩めた。
「そっか、ゾロも色々戸惑ってんのか」
「当たり前だろ。そうでなくてもこんな小せえのが家ん中チョロチョロしてんだから、気も遣うし意識も逸れる」
ゾロとサンジが廊下で立ち止まっている間、風太は二人の間を行きつ戻りつしながら舌を出して見上げている。
「ゾロ」
「ん?」
「風太のこと、可愛いと思うか?」
何を今更と、片目だけ丸くして見せた。
「当たり前だろうが」
お前ほどじゃないが、とは口に出さない。
「そっか」
よかった・・・とほっとして、笑顔になる。
「なんだよよかったって、当たり前だろうが。一応俺だって、こういうものは可愛いとかちゃんと思うぞ」
「ん・・・その辺がゾロはちょっと、わかんねえから」
モジモジしているサンジに正直愕然としながら、ゾロは思い付いて聞いてみた。
「お前はどうだ」
「え?」
「風太が、可愛いか?」
きょとんと目を見張り、すぐに頬を赤くした。
「あ、当たり前だろうが!」
何を今更と、憤懣やるかたない様子で目を釣り上げている。
それに反して、ゾロは暢気に笑った。
「じゃあ同じだな」
「・・・」
「俺もお前もこいつが可愛い、同じだ」
トテトテと音を立てて歩き回る風太を抱き上げ、二人の間に持ってくる。
「二人で可愛がって、大事に育てりゃいいじゃねえか」
サンジの顔の前で風太を掲げ、まるでウンウンと頷いているかのように軽く揺する。
きょとんとしたまま揺れている風太にぷっと噴き出して、サンジは笑い声を立てながらゾロの手から風太を奪った。
「そうだな、俺達の風太だな」
さあ、飯にしようぜ。
すっかり機嫌を直したサンジの後に続き、ゾロは手を洗って食卓に着いた。
「それじゃ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
勉強会に行くのと同じように、片手に風太を抱いて二人?で見送られる。
運転席のドアを閉めようとして、ふと手を止めた。
「お前、大丈夫か」
「ん?大丈夫だって」
多分・・・と小さく付け加え、なあと風太に同意を求める。
今日は和々にケーキを届けに行かなければならないから、その間だけで風太は初の留守番となる。
やってみると意気込んだサンジとは反対に、ゾロは一抹の不安があった。
「なんだったら、俺がこのまま駅前寄って持ってったらいいんだぞ」
「いいんだって、今日は山端で方向が反対の現場じゃねえか。寄り道してたら仕事に遅れる」
仕事が第一!と力説されてはそれ以上言えない。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
風太の小さな手にバイバイされて、むず痒いようなくすぐったいような心地のままゾロは軽トラを発進させた。
「さて、と」
軽トラが田んぼの向こうに見えなくなってしまってから、サンジは裏庭に回って犬小屋の鎖に風太を繋いだ。
朝からずっと遊んで貰っていて、そろそろ眠くなったらしい。
犬小屋の前にペタンと腰を下ろして草の匂いを嗅いだり前足を舐めたりしながらも、動きは緩慢だ。
「取り敢えず、洗濯物だけ干しちゃおうかな」
縁先の物干し竿に洗濯物を掛けている間、風太はサンジの動きを眺めていたが、その内伏せの状態で動かなくなった。
前足に頭を乗せて、クウクウと眠っている。
「お、よく寝た寝た」
それでは今のうちに・・・と、サンジは抜き足差し足でサンダルを脱ぎ家に上がる。
空模様は薄曇だが、雨の気配はない。
大丈夫だろうと見越して、和々への出前に行くべく準備を始めた。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはようサンちゃん」
今日も和々の看板娘?達は元気だ。
すっかり夏らしく涼しげな装いとなった店内で、お揃いの藍色のエプロンを身に着けたお松ちゃん達が忙しげに立ち働いている。
「サンジさん、一人?風太君は」
「留守番。多分寝てると思う」
「風太君?」
「仔犬ですよ、徳さんちの」
「ああ、貰ったの」
「そう言えば、仔犬飼うとか言ってたあねえ」
はい、今日のお菓子と厨房に運べばたしぎが条件反射みたいに両手を差し出した。
「こらこら、ダメだよたしぎちゃん」
「あ、つい・・・」
重いものはダメと、サンジの方が注意をする立場になっている。
「でも、そんなに気を遣わなくてもいいと思うんですけど。妊娠って言っても普通のことですし」
病気じゃないし、ねえ?とお松ちゃんに同意を求める。
「あんまり大事にし過ぎて運動不足になるといけんけどね、たしぎちゃんは人の倍ほど気を付けた方がいいとお思うよ」
「そうそう」
「え、なにそれヒドい」
ほっほとすゑちゃんが笑う。
「あたしらが身重ん時は、臨月でも田植えしたけどね。今の娘さんにその真似しろなんてとても言わないし思わないわ」
「人に寄るから、大事にするにこしたことないよ」
人生の先輩が身近にいるから、サンジとしても安心だ。
「お松ちゃん達の言うことをちゃんと聞いて、大人しくしててね」
「はあい、サンジさんも早く帰ってあげて。風太君が心配だから」
「ありがと」
裏口から出るサンジを見送るためか、たしぎがカウンターの横を通り抜けようとしてゴミ箱に蹴躓いた。
「きゃ」
「うわあっ」
たしぎより大きな声を上げてサンジが駆け寄る。
先にすゑちゃんに支えられたたしぎが、カウンターに手を付いてへへへと苦笑いした。
「なんでこんなとこにゴミ箱が・・・」
「さっき、私が持ってきて置き忘れたみたい」
「・・・大丈夫、あたし達がちゃんと見てるから」
「お願いしますよ、本当に」
もうそれ以上動かないでと念を押して、サンジはさっさと和々を後にした。
自転車で和々までは10分。
帰りは坂道があるから15分掛かるけど、正味30分も留守にしてはいなかった。
「ただいまー」
家の中に入るのももどかしく、サンジは外から回って縁側に戻った。
「風太、まだ寝てるかな?」
そうっと足を運びながら、犬小屋を見る。
風太の姿がない。
小屋の中に入ったかと、中を覗いたが空っぽだ。
はっとして足を止めた。
鎖の先に赤い首輪だけを残して、風太はいなくなっていた。

