快眠導入剤

ゾロはどうにも調子が悪かった。
何というか、眠れない。

昼間甲板に腰を下ろして目を閉じる分には、ものの5秒も意識は保たないが、いざ男部屋で
ハンモックに身を横たえるとまんじりともできない。
どういった訳か目が冴えて気が昂ぶるのだ。
そうして無駄に転がりつつ寝返りを繰り返している内に、仕事を終えたコックが足音を忍ばせて
部屋に入ってくる。
途端、ゾロの身体に緊張が走った。

そう、なぜかこの船のコックが現れると、無意識にゾロは緊張する。
緊張と言っても鯱ばってしどろもどろになったりする訳ではけしてない。
ただ息を潜めて気配を消す。
ぶっちゃけ寝た振りをする。
それでいて全神経をコックに集中させるのだ。

コックはシャワーを浴びてきたらしい。
ほのかにいい匂いをさせて、ほんのり上気させた頬でゾロの横を通りすぎる。
いい匂いだなんて、石鹸ならゾロだって使う。
なのになぜ自分から香る匂いとコックから立ち上る匂いを違うものみたいに感じるのだろう。

身じろぎもしないまま、片目だけ開けてみた。
コックは濡れた髪を拭いている。
暗い照明の下でいつもより色濃く見える金髪の、乱れて張り付いた襟足が見えた。
思わずごくりと唾を飲み込みそうになって、中途半端に口を引き結ぶ。
乱暴に髪を拭いて、首を少し傾けて、煙草に火をつける。

この辺りからゾロは苛々してくる。
悠長に一服なんかしてやがらねえでとっとと寝やがれ!
薄暗闇に紫煙を燻らせながらぷわーなんて間の抜けた声で溜息なんか吐かれた日には、寝た振りしながら
貧乏揺すりでもしたくなるくらい落ち着かない。
ゾロの胸中を知るはずもなく、サンジは緩慢な動作で灰皿に煙草を揉み消すと、やれやれと独り言を
呟きながらハンモックに身を横たえた。

ぎしりと縄の軋む音と衣擦れ、欠伸を伴う吐息。
目を閉じて寝た振りを続けながら、ゾロの全神経は戸口の直ぐ手前でかすかに揺れるハンモックに
集中してしまっている。
何度か身動ぎを繰り返しながら、サンジの呼吸が緩やかになっていく。
息を詰めて耳を済ませていたゾロの身体からも、徐々に緊張が解けていく。
吸って吐いて吸って吐いて、止まって・・・欠伸。

いつの間にかサンジの息遣いにあわせながらゾロもまどろむ。
うとうとと夢現の境を彷徨いながら、時折漏れるくふんと言うサンジの寝息に妙な夢がシンクロする。
ぱちりと目を見開いて頭だけ覚醒しても身体はうまく動かない。
首元辺りがじっとりと汗ばんで、なんて夢だと思い起こせばどんな夢だか覚えていなかった。

ただ無闇にドキドキと心臓が鳴り響き、下腹に熱が篭もっている。
耳を澄ませば、いくつかの寝息が不規則に響くばかりでどれがサンジのものかも聞き取れない。
内心で舌打ちして目を閉じればすぐに眠りは訪れるのに、誰かが寝返りを打つ音ではっと目が覚める。
そんなことを繰り返しているうちに、どれくらい時間が経ったのか、唐突にサンジがむくりと起き上がった。
少々覚束ない足取りながらもハンモックから降りてそうっと部屋の扉を開ける。
外はまだ暗く冷気を帯びた風が一瞬淀んだ空気の中に流れ込んだ。
直ぐに扉は閉じられ、元の静けさを取り戻す。
そうしてはじめて、ゾロは深い眠りに落ちるのだ。

そんな状態がもう1週間、続いている。










バキ!

「起きろ、クソマリモ!!」
衝撃の後に声が掛かる。
何度言ってもこの順番が変わることはない。
打たれ慣れて頭皮にまで筋肉がつくか、脳味噌が豆腐になるかどちらが早いかななんて、
他人事みたいに考えながらゾロは目を覚ました。

太陽はとうに昇りきり、開け放たれた男部屋の戸口から燦々と降り注いでいる。
「ったく呆れた寝腐れマリモだな。どんだけ寝りゃあ、気が済むんだ」
憎まれ口を叩きながら、サンジは軽くステップして当然返るであろうゾロの反撃に備えるため、
数歩後ろに下がった。
だが意に反してゾロはのろのろと身体を起こすと、文句一つ言うでなく殆ど無視する格好でサンジの
隣をすり抜けた。

「てめこの、起こして貰っといて礼もなしかよ」
やや上ずった声でサンジが追いかけてくる。
立て板に水のように背中から罵詈雑言が浴びせられるが脳内にまでは届いてこない。
なんせゾロは不調なのだ。

食事して鍛錬して、後はひたすら眠る。
いつものゾロの生活パターンではあるが、少々様子が違っている。
真昼間から甲板に寝転がって爆睡しているのだ。
誰がみても明らかに、深く深く眠りこけている。

おやつの時間だぞーと呼びに来たサンジをもってしても躊躇われるくらいの熟睡振りで。
そしてとうとうある日――――
突然現れた海王類が長い尾鰭で甲板を叩いた弾みに、転がっていたゾロが海面に叩き落された。
にも関わらず、ゾロは起きなかった。
恐ろしいことに、剣の道で倒れる前にうっかり溺死するところだったんである。



これはさすがにまずいと、ゾロも思った。
健全な肉体を維持するためには睡眠は不可欠だ。
だからと言って、どうすればいいのだろうか。
悩むゾロの様子がおかしいと、いち早く気付いたのは優秀な船医だった。

「ゾロ、ちょっと話がある」
「ん?」
振り返ったゾロの目は半眼だ。
ここのところずっと、瞼が中途半端に降りている。
眉間に皺を寄せたり口をへの字に曲げたりもするものだから、無愛想を通り越して物騒な顔つきで
ビジュアル的にも問題になっていた。

さすがに毎日共に暮らしてある程度免疫のできたチョッパーだが、それでも本能からかびくびくと
後ろ毛を逆立てながらもゾロを医務室に手招きした。
「ゾロ、単刀直入に聞くぞ。最近調子、悪いのか」
「ああ」
至極あっさりと、肯定されてしまった。
「やっぱりか?どんな風に調子悪いんだ?」
勢い込んでさらに質問を続ける。
「眠れねえ」
「眠れない?夜にか」
「ああ」
「それで昼間ばかり寝てるのか。昼間なら眠れるのか」
「そうみてえだ。けど、どうも寝た気がしねえ」
「甲板は明るいし、騒がしいしな。脳が休まらないんだろう」
うんうんと頷いて、チョッパーはゾロの胸に聴診器を当てた。

「特に異常は見当たらないけど、どうして眠れないのか心当たりはあるか?」
「いや特に・・・」
「心配事とか」
「ねえ」
「悩み事とか」
「ねえ」
「気になる事とか」
「・・・」
素直に黙ったゾロに、チョッパーはずいっと身を乗り出した。
「なにか、気になる事あるのか?」
「・・・気になるっつうか、気にいらねえっつうか・・・」
「何が?」
「コックが」
はい?とチョッパーは首を傾けた。

「サンジがどうかしたのか」
「うぜえ」
「・・・」
これにはチョッパーも困ってしまった。
元々喧嘩ばかりの気の合わない二人だが、ゾロの不眠の原因になるほど関係が険悪だったとは思わなかった。
「そんなに、サンジのこと嫌いなのか?」
ちょっと声のトーンが落ちてしまう。
チョッパーにとってゾロもサンジも大事な仲間だ。
仲違いなんかして欲しくない。

「嫌いっつうか、うぜえ。鬱陶しい。目障りだ」
あんまりな話である。
チョッパーから見る限り、サンジはいつも口汚くゾロを罵ってはいるが、邪険に扱っている訳ではない。
寝過ごして食事を食べ損ねないようにゾロの分だけ取って置いたり、食べる前には温め直したり、
鍛錬の度合いに応じて差し入れるドリンクの種類を変えたりと、いっそ甲斐甲斐しいまでの気の遣いぶりだ。
そのことに、ゾロは気付いていないのだろう。

「ひどいよゾロ。サンジをそんな風に言うなんて」
カウンセラーとしては、クランケの言うことをまずは聞いて同意して、さり気なくアドバイスに
持ち込むべきものなのに、つい感情的に反論してしまった。
なんせチョッパーはサンジが大好きなのだから。

「サンジが男部屋で一緒に寝るから眠れないっていうなら、ゾロだけ別のとこで眠ればいいじゃないか。
 格納庫とか・・・」
そう、以前はみかん畑の中ででも寝ていたのだ。
「そう思って、そうしたがな。また眠れねえんだ」
「え?」
「いねえといねえで、気になって眠れねえ」
「はあ?」
少々雲行きが違ってきている。
はて、とチョッパーは首を捻った。












「気になってって、じゃあゾロはサンジの何が気に食わなくて鬱陶しいんだ?」
ゾロは至極真面目な顔で斜め上方向に視線を漂わせた。
「例えば髪がな」
「紙?」
「髪だ、毎晩洗ってから寝るのに、ちゃんと乾かさねえ」
「・・・」
「こう、滴が垂れてるのにな、がしがしっとタオルで拭くだけで寝ちまう」
「・・・」
「そろそろ冬島海域に入って夜は冷えっだろうが」
「・・・」
「いくらバカは風邪ひかねえっつってもな」
「・・・」

どうコメントしていいかわからないチョッパーを気にも止めず、ゾロはまたああと声をあげた。
「それから息がな」
「・・・」
「こう吸って吐いて、時々・・・」
「無呼吸か?」
「いいや、こう鼻から抜けるような声を出しやがる」
「?」
「耳について眠れねえ」
「???」
ドクターくれはから外科的な医術は専門的に学んだが、心療内科は専門外だ。
けれども仮にもこの船の船医。
オールマイティーでなければならない。

「ところでゾロ、人間に発情期って、あったっけか?」
「ああ?」
意味不明は発言にゾロの方が眉を顰める。
「なかったよねえ。まあ、前向きに考えよう」
「前向きにか」
チョッパーは聴診器を片付けると、小さな膝に蹄を置いて、ゾロに向き直った。




「ちょっと確認するね。ゾロはサンジの動向が気になるんだな」
「おう」
「んで、サンジ見ると、鼓動が早くなったりしない?」
ゾロは目を丸くした。
「よくわかるな」
感嘆の声を無視してチョッパーは淡々と質問を続ける。
「気が付くと目の届くところにサンジがいたりしない?」
「する。なんでか人の前をうろちょろしてやがるな」
「サンジの声だけやたら大きく聞こえたり」
「いつもよく喋ってっからな」
「サンジの方から話し掛けられると緊張したり、しないか」
「するか。なんかうざくて鬱陶しいけどな」
「・・・サンジがナミやロビンと楽しそうに話してるとむかむかしない?」
「んー、あれか。腹のこの辺が気色悪い」
「サンジの寝顔を見ると、お腹の下辺りが熱くならないかい?」
「すげー、そんなことまでわかるのか」

あっさりと認めたゾロに、チョッパーは深い溜息をついた。
「単刀直入に聞くよ、ゾロ」
チョッパーは軽く蹄を上げた。

「サンジの夢を見て、朝勃起してないかい?」
「・・・」

しばし沈黙が流れた。
ゾロはゆっくりと腕を組み、ふうんと間の抜けた声を出した。
「そうか、あれ勃ってたのか。つうか、夢に出てたのはクソコックか」
すべて得心が行った。
どうやら自分はコックに発情しているらしい。
チョッパーは何故か事務的にカルテに何かを記入している。

「・・・で?」
ゾロはかくんと顎だけ落として不審そうにチョッパーを見る。
「でなんだ。こりゃあどうすりゃ治るんだ」
「治らない。ドクトリーヌも言ってた。バカにつける薬がないのと同じだ」
「なんだそりゃあ」
見事な匙の投げっぷりである。
いっそ清々しいが、それではゾロの気が済まない。

「どうにかならねえのかよ。なんか原因があるんだろーが」
「あることは、あるけどね」
原因があって対処を考えるとなると、ゾロひとりの問題でなくなる。
第一その対処方法は、サンジにとっては大迷惑なことじゃないだろうか。

「原因はずばりサンジだよ。ゾロはサンジに発情してる。だからどうすればいいなんて、まあ俺の口から
 今すぐ指示は出せないから、ちょっと自分で考えてみてよ。いよいよとなったら、処方箋を書くから」
チョッパーはぞんざいな口調でそう言うと、パタンとカルテを閉じた。
船に乗った当初はビクつきながらも一生懸命だったチョッパーも、随分図太くなったものだ。

「ゾロはまあ若いんだから。多少眠らなくても大丈夫だよ。これを機会にたまには頭使ってみるのも
 いいかもしれないね」
随分な台詞と共に早々に医務室から追い出されてしまった。




ただズバリと指摘されたゾロとしては、それほど腹も立たない。
――――そうか俺は、クソコックに発情してんのか

驚きとか嫌悪とか認めがたいとか、そう言ったことをあっさり飛び越えて、すとんと納得してしまったのだ。








コックに触りてえ。

自覚してしまえばそれだけのことだ。
だが触ってどうするってえのか。
大体何を触りてえんだ。
自問自答しつつ、ゾロは寝た振りついでに甲板でナミ達にドリンクを振る舞うサンジの動きを眼で追った。

よく晴れた昼下がり。
キンキラ落ち着きなく光る髪が陽光を跳ね返している。
あれだな。
あの髪か。
止むを得ずコックを探さなければならないときなどいい目印になる。
やたらと目立つ派手な金髪。
つるんとしてさらりときて、風が吹くとぽわぽわしているが、実際触れてみればどんなだろう。

――――それからあの首
どうにもこうにも、一度はきゅっと絞めてみたい首だ。
両手をまわすと多分指が重なって絞めにくいだろう。
片手でぐいっと力をこめれば簡単に絞まる。
下手すっと骨が折れるかもしれねえ。
折っちゃいけねえな。
軽く絞めて・・・
絞めてどーするよ。
ゾロはセルフ突っ込みをした。

いかんいかん。
俺はコックに触りたいんであって、別に殺すつもりはねえ。
慌てて軌道修正する。
絞めなくてもいいな。
首を抱えてみりゃあいいんだ。
目測でも多分俺の掌でほとんど掴めるだろう。
ついでにあのまるっとした後ろ頭を確認してもいい。
襟足が短いから、そこだけざりざりした感触かもしれない。
だが見た目に猫っ毛だが短い毛はつんつん固いんだろうか。
それとも短くても心許ない手触りなんだろうか。

ゾロは無意識に口端を軽く上げた。
不気味な笑みだ。
その場にウソップかチョッパーがいたらびくりと震え上がって、速攻立ち去るに違いない怪しさである。
幸い日陰にはゾロが一人。
思う存分妄想・・・もとい、作戦を練っていられる。