虎落笛
  







吉原でも1、2を争う総籬「戎屋」の楼主は道楽者だった。
店の経営はすべて女将に任せて自分は放蕩三昧。
珍しいことではない。
大体楼主と言えば絹・縮緬に身を包み、遊んで暮らすのは当たり前の話だが、この楼主
さらに度を越した酔狂者でもあった。




当時の看板太夫、駒鳥太夫に紅毛人の禿
をつけたと話題になり、その禿一目見たさに花魁道中は
大いに賑わった。
実際、天狗の如きと形容するにはあまりに整った小作りな顔立ちに、人々は魅了された。
透き通るような白い肌も輝く髪も、鮮やかな光彩を伴って見開かれた蒼眼も、すべてが異形であるのに
まるで作り物のように美しい。
当代随一と謳われた駒鳥太夫の前を提灯を携えて歩く姿は、聊かの恐れと溜息をもって注目された。

その後、振袖新造を経て三治太夫として披露されたその席で、楼主は実はこの花魁、男でしたと暴露した。
その際の酒席の混乱振りは、ちょっとした伝説になっている。
楼主の巧みな喧伝故か、女将の手腕か、今日も戎屋は大繁盛だ。









「あねさま。雪が降って来んしたよ。」
「おや、冷えると思ったら。たしぎ、もっとこちらにお寄り。」
火鉢の隣へと招く白い手をじっと眺めて、たしぎは微笑んだ。

「あねさまは、雪の精のようでありんす。」
子供らしい、夢見心地な物言いに、サンジの顔も綻ぶ。
「雪なんて、冷とうてさみしゅうて、恐ろしいものでありんすよ。」
「そうで、ありんすか。」

たしぎは、水鶏太夫の忘れ形見だ。
正真正銘の廓生まれの廓育ち。
つい先日サンジの共をして神社に参拝に行くまでは、吉原の外に出たこともなかった。

「白い空からひらひらと花のように舞い降りて、掌ですうと溶けてしまいんすから、あねさまの
 ようと思っておりんした。」
そうかえ、とサンジが笑う。
「夜中に起きると、驚くくらい静かで空気が重とうて、でも外を見ると屋根の上に積もった雪が、
 何かしら灯りが灯ったように明るく見えるんでありんす。」
たしぎは両手を胸の上で組んで、格子窓から覗く灰色の空を見上げた。
「だからあちき、雪の夜はこわくないんでありんすよ。」
サンジは肩先で綺麗に切り揃えられたたしぎの髪を柔らかに撫でた。
「確かに夜の雪景色は美しゅうありんす。きんと冷えた月夜に一面の雪野原は、昼間のように明るくて、
 寒ささえ忘れてしまいそうになりんした。」

遠い昔、雪に埋もれ朽ちかけた小屋で、明日をも知れぬ心細さに涙したこともあった。
胸に浮かぶのは、あの時赤切れだらけの凍えた手を両手で包み込んで、息を吹きかけてくれた
たった一人の幼馴染。

たしぎにつられるように外に目を向けたサンジの耳に、木枯らしが吹きぬける音がひゅうと届いた。






初会の客が来たと言う。
物珍しさからサンジを呼びたがる客も多いが、法外な揚代と男であるという事実に尻込みするのが大半だ。
それでも一度顔合わせをした客人は、大抵裏を返し馴染みとなる。
そう多くはないが、頻繁に通ってくれる上客ばかりだ。


引付部屋まで来ると若い衆の銀が控えていた。
この間、無理を通して外に出て、人斬りに出会ってしまった時も、帰りを心配して駆けつけてくれた。
陸尺に逃げられて途方に暮れていたサンジ達だったが、銀のお陰で大事に至らずに済んだ。
サンジが戎屋に引き取られてからずっと、銀は何かにつけ助けてくれる。
その銀が、難しい顔で襖の向こうを睨んでいる。
初会の客を値踏みしているのだろうとサンジは思った。


部屋に通されて上座へと進む。
裾を整えて両手をつき、三治でありんす。と挨拶をして顔を上げた。

正面に胡座をかいて座る姿は商人や大名のそれとは違う。
桧皮色の着流しに白い晒。
日に焼けた肌はなめし皮のように艶を帯び、見事な筋肉が見て取れる。
晒の下に覗く胸には斜めに刻まれた刀傷。

――――ゾロ。



サンジは小さく頤を震わせながらも背筋を伸ばし、前を見据えた。

頭一つ高い位置に、再会して以降頭から離れなかった姿があった。
暗緑色の短髪、精悍な顔立ち。
慣れない場所にいるせいか、むっつりとへの字に曲げられた口元が、幼い日の聞かん坊だった彼を思い起こさせる。
思わず微笑みそうになって、サンジは口元を引き締めた。

凍える手をそっと温めてくれた、ただ一人の幼馴染。
唯一の幸せな記憶。


新造たちが両脇に座り、酒を注いだ。
初会で太夫が口を開くことはない。
本来なら客人があれこれと話し掛け、なんとか太夫の気を引こうと努力するものなのだが、ゾロはただ
黙って酒を飲むばかりだ。
それが、らしいとサンジは思った。

国元を離れて売り渡されて、もう二度と会うことはないと思っていた。
思いもかけず人斬りの噂を聞いて、もしやとも思っていた。
それがこうして再び見えることができるとは。
いや、――――
もしかして、会いに来てくれたのかな。

到底縁のなさそうな大見世に足を運んで、自分を呼んでくれた。
それだけでサンジは嬉しかった。
様変わりした己の恥を晒すこと以上に、ただ再び会えたことだけで嬉しかった。
おそらくはこれきりだろうと自ら徳利に手を伸ばそうとして、襖の向こうから声が掛かった。




「柳原様がおいででありんす。」
もらいびきだ。
サンジの顔色がほんの少し、白さを増す。

「お客人はこちらへ。」
呼ばれてゾロは立ち上がり座敷を明け渡す。
その後ろ姿を名残惜しく思いながら、サンジは手をついて見送った。






「どういうことだ。」
ゾロは憮然として通された座敷で胡座をかいた。
サンジは姿を見せないし、変わりに見知らぬ女が正面に座っている。
「太夫の名代を勤めます、茅でありんす。どうぞよろしゅうに。」
そう深々と頭を下げられても訳がわからない。
「俺あ、サンジを呼べっつったぞ。」
「野暮でありんすよ、お客人。」
幼い声に隣をみれば、いつぞやの子供がちょこんと側に座っていた。

「茅さんは太夫の妹新造でありんす。どうぞよろしゅうに。」
幼子に窘められてゾロはふんと顔を顰め、それでも杯を突き出した。
酒を注ぐ茅の手が小さく震えている。
「ったく、面倒なこった。」
なあ、と身を屈めてたしぎに同意を求めるから、思わず笑ってしまった。
人伝てに聞く『人斬りのゾロ』はそれほど恐ろしい人ではないのかもしれない。








夜半に降り始めた雪が風に煽られて闇夜に舞っている。
時折ひゅっと風がなる音にサンジは耳を傾けた。

「今宵は特に、冷えるな。」
手を取られて後ろから抱きしめられ、サンジは顔を背けて項をさらした。
分厚い手が鎖骨を撫でるのをやんわりと止める。
「柳様」
襦袢の襟を合わせ、男の懐に顔を寄せて頭を垂れる。
「今宵は・・・嫌でありんす。」
サンジを腕に抱いた初老の男は、ほうと声を出した。
「これはまた、なんと可愛らしいことを言う。お前がわしを拒むのは始めてのことだな。」
ほっほと笑って細い肩を抱いて隣に横たわらせた。
「それでは今夜は、添い寝してもらおうかの。」
「ありがとうおざんす。」
その胸に甘えて、サンジは目を閉じた。
もう恐らくは、二度と目にすることはないだろう、ゾロの姿を思い浮かべる。





またひゅうと、風が鳴った。









霜華に続く
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