晴レタ日 ソラ シタ

むっとする草いきれの中で、ゾロは目を覚ました。

風に揺れる笹葉が頬を叩くのに、はっきりとした感触や痛みを感じない。
眼前に広がるどんよりとした空と果てなく続く草原に見覚えはなく、なんとなくこれは夢だなと思った。

夢を見ていると、自覚できる夢。


手をついて身を起こした。
手だと思うものは茶色い毛に覆われて黒い模様が入っている。
丸まって鈍くて、指の感覚はなかった。

完全に身体を起しても目線が低い。
そう高くない草丈に隠れる程度にしか視界が広がらない。

「なんだこりゃ」
言ったつもりが、響いたのは唸り声だ。
要領を得ない、喉を鳴らす音と鼻息。
ゾロはもう一度足元を見た。
手だと思うものは足のように踏ん張っている。
その場で腰を下ろして空を見上げた。
意思に反して視界の隅にふよふよと縞模様の尻尾が揺れる。

ケモノだな、とやや無感動にゾロは悟った。
毛並みから察するに虎だろう。
しばし風に吹かれるまま目を閉じて考えたりもしていたが、無意識に腕を舐めたり胸のあたりを毛づくろいし始めた。
なんの違和感もなく行われる動作は、ずっと前から虎だったことを示している。
ゾロはたいして深く考えず、虎に身を任せてみることにした。






曇っていた地平線の彼方は中途半端な朱に染まってやがて光が失われていった。
どうやら夕暮れだったらしい。
ひたひたと真の闇が忍び寄るのをゾロは興味深く見ていた。
人間の目とは違う、獣の視界。
ゾロも夜目の利くほうだが、やはり虎は格段に違うなと笑ったつもりで髭を揺らした。

中空に半端な半月が顔を出し、闇の草原を青白く照らし出す。
ゾロは毛づくろいを終えて静かに歩き出した。
どうやら腹が減っているらしい。
獲物を見つけに行くのか。
虎として歩きながら、ゾロの気分は高揚した。


風に乗って獣の匂いがする。
何かはわからないが、美味そうな匂い。
兎かネズミか―――――
虎はなんだって食べるんだっけか。
どうせなら鹿くらいの大物がいないものか。

匂いの主は、上手く風下に廻って立ち去ろうとしている。
ただの虎なら誤魔化され逃げられただろうが、一応中身はゾロだ。
人間並みの思考は持ち合わせている。
よく見える目と鋭い鼻で獲物の動きを探った。

気配を感じ取り神経を集中させる。
ほんのすぐ側で蹲っている。
虎の足はどれくらい早いのだろうか。
あれこれ考えるより早く、ゾロは飛び出していた。





闇に跳ねたのは狐だ。
月を受けて青白く光る尾を靡かせて懸命に逃げる。
歩幅が断然違うゾロは余裕で追いかけて追い詰めて、爪を出してその細い背に打ち下ろした。
か細い悲鳴みたいな音が聞こえる。
断末魔の声を聞くまでもなく喉笛を噛み千切った。
血の匂いが食欲をそそり、前足に押さえつけられた胴体はまだ温かく震えている。
腹裏の柔らかな部分から貪るように食った。
生肉だとか内臓だとか、人間として敬遠すべき事柄は今のゾロには露ほども引っ掛からない。
虎そのものになり切って喰らい尽くし、骨まで舐めた。
美味かった。
べろりと口端から鼻まで舐めて、満足そうに首を振る。
さっきまで狐だったものは、銀に輝く毛皮を残して夜風に揺れている。
食べ残されて捨てられた顔にはやはり銀色に光る眼が、虚空を見つめていた。










鳥たちのさざめく声で目を覚ました。
よく晴れた青い空が地平の彼方まで広がっている。
太陽はとうに昇り、遠くにはガゼルの群れが沼場で水を飲んでいた。

まだ虎かよ。
夢なのに、一晩眠ってもまだ覚めない。

まあ夢ん中の時間は現実とは違うからな。
えらく長い間夢を見ていた気がするのに、実際はほんの一瞬だったりする。
だからこの夢も一晩経っているように思えて実はほんの数秒もかかっていないのだろう。
それでも昨夜は・・・と思い起こした。

腹が満ちて満足して、眠くなったのだ。
生きるために食うだけの生活。
虎としちゃあ、悪くない。
ふと思い立って、昨夜の残骸を探してみた。

食ってすぐ寝たからそう遠くには行ってないはずなのに、痕跡が残っていない。
骨の欠片も、匂いさえもない。
ハイエナにでも持ってかれたか?
やや釈然としないながらも、ゾロである上に虎なので、そう頓着しなかった。






適当に草原を歩き、水を飲み、毛づくろいをし、昼寝する。
腹は減ってないから獲物を捕る気にはならない。
虎だから鍛錬も出来ない。
1日の大半を寝て過ごしながら、ゾロは呑気に暮らしている。

虎生活も板についてきた。
このまま虎として生きていく羽目になるんじゃないかと、さすがのゾロも危惧し始める。
昼間は寝て過ごし、夜は獲物を捕らえて喰らう生活がもう数日続いている。



獲物は兎だったりガゼルだったり、狐だったりした。
兎やガゼルはともかく、狐は妙だ。
ゾロはまだ人間らしく考えた。

動物はどれも同じに見えるが、狐は特に同じに見える。
模様や色違いなんてものがないせいかもしれないが、毎回喰らう狐が同じ狐のように思う。
ふさふさとした尻尾を揺らし、しなやかに駆ける美しい狐だ。
月光の下でしか見ないから銀色の毛に銀の瞳を持っている。
いつもひょっこり現れて、ゾロに食われる。
その肉は実に美味くて、匂いを嗅いだだけでゾロの口中に涎が沸いて出てきた。

そう、匂いが同じだ。
ガゼルや兎はそれぞれ同じ種類でも匂いが違うのに、狐だけはいつも同じだ。
まるで同じ狐を毎回喰らっているようだ。




虎には不似合いな思考を残して、夢うつつで目を覚ました。
空気が湿り気を帯びている。
今日は少し雨が降るかもしれない。
立ち上がって木の下へと移動するのに、昨夜の残骸がまだ傍らに残っていた。
鹿の頭と骨と皮。
ハイエナたちが処分したりしていない。
兎だって、翌朝には臭いくらい残っている。
なのに狐はいつも忽然と消えていた。
屍の片鱗すら窺うことが出来ないくらい、完璧に。

ゾロは虎らしく首を振りながら草原を横切った。
ひとしきり降った雨は草原を濡らし、夜を真の闇と化す。
身体を震わせて毛皮についた水滴を落とすと、ゾロは舌なめずりをして木陰に身を伏せた。
いつもより鼻は効かないが、目を凝らして闇を見る。

ほんのかすかだが、狐の匂いがする。
ゾロにとってこの上ないご馳走だ。
だが草葉の陰に、別の生き物が顔を出した。

虎だ。
同類、かよ。
まだ人間性も残っているゾロは見下した気分で同類を見た。
ゾロよりひとまわり小さな虎は、口に獲物を咥えている。
銀色の毛が力なく揺れていて、あの狐だとわかった。

ゾロの頭にかっと血が上る。
あの狐を、他の奴に獲られた!
なぜだか非常にむかついた。
感情はそのまま素直に表に出て、ぐわおと闇を裂くように吠えた。

正面の同類は歩みを止めて、耳を立てている。
怒っているのか戸惑っているのか、生憎ゾロは虎の表情なんて読み取れない。
同類ごと食う気で前に飛び出した。
牙を剥いて威嚇する。
相手の尻尾が丸まって後足の間に入った。
多分、驚いて怯えているのだろう。
ゾロは容赦なく鼻面で吠え立てて圧し掛かろうとした。
虎は咥えていた獲物を置いて、唸りながらもさっと身を翻して闇へ逃げていった。

―――――虎ってえのは、人の獲物横取りしたり、すんのかよ
ちょっと冷静に人間に立ち返って考えて見る。
よくは分からないが、目の前にはあの狐が横たわっていた。
もう死んでしまっているのだろうか。
くんくんと匂いを嗅げば、小さな鼻面がぴくりと動いた。
まだ息はあるらしい。
鼻をくっつけて匂いを嗅ぎまくる。
クソ虎の匂いもするが間違いない、いつも食うあの狐だ。

ゾロはふと思いついて話し掛けてみた。
虎ではない、人間として。


「俺は、お前をいつも食ってねえか?」

もちろん虎だから声なんか出るわけがない。
でもどこかにそれが響いたのか、狐は弱々しく目を開けた。
「聞こえんのか。言ってること、わかるか」
狐は目を閉じて、それからぺろりと舌を出した。

「・・・わかったのか、俺を食ってるって・・・」
ビンゴかよ、とゾロは驚く。
「やっぱり、お前を食ってんのか、俺は」
「・・・そうさ、いつも俺だ」
ひゅう、と狐の喉が鳴った。
「なんでだ?なんで生き返る?」
「・・・話は、あとだ・・・もう、もたね・・・」
ぴくぴく、と小さく痙攣してだらりと舌が伸びた。

狐は死んでしまった。
ゾロは仕方なく、まだ暖かいそれを食べた。
いつものよう喰らい尽くした。




段々と虎に成り切っていく自分に不安を感じていたゾロだが、狐との出会いで少々気が晴れた。
なにせ会話を交わせたのだ、獣同士とは言え。
ゾロは昼間、惰眠を貪らずに草原を駆け回ってみた。
どこかであの狐を見かけないかと思ったのだ。
だが一向に見つからない。
匂いすら感じない。
あの狐が現れるのは決まって夜の闇の中だ。
だから日が暮れると闇に身を潜ませる。
神経を張り巡らせて狐を探す。
他の奴に獲られる前に、俺が見つけてやる。
なんだか使命感に燃えたみたいにゾロははりきった。




――――いた
あの狐だ。
身を屈めて辺りを窺いながら忍び足で歩いている。
ゾロは「おい」と声をかけた。
獣の唸り声だったけど、狐はぴくりと耳を震わせて頭を上げた。
「俺だ」
ゾロが顔を見せると、狐は身を翻して逃げた。
「おい、待て!」
ゾロも追う。
狐は逃げる。
全速力で追いかけるうちにゾロの中の狩猟本能に火がついた。
逃げる狐を追う。
捕まえる。
爪をかける。
その背を引き裂き、喉笛を引き千切った。
気がつけば、ゾロは口の周りを真っ赤に染めて殆ど喰い尽くしていた。

―――――しまった
後悔しても後の祭りだ。
ゾロはぺろりと鼻の頭を舐めて、取り敢えず眠ってしまった。







今夜こそはと気を改めて狩りに臨んだ。
いや、狩りじゃねえ。
話し合いだ。
人間らしく、こほんと咳払いしてみせる。
例え話が通じるとは言え、所詮相手は狐だ。
驚かしちゃいけない。
自分は虎で相手は狐。
どうにかうまく話ができないものか。

逡巡していたら、闇夜にぴょんと光が跳ねた。
どうやら例の狐が何かに追われている。
ゾロは猛然と駆け出した。
誰であろうが狐に手を出す奴は許して置けない。
そいつは俺が食うんだ!
叫びは咆哮となって草原に鳴り響いた。




血で汚れた毛皮を、でかい舌でべろべろ舐める。
狐はぺたんと耳を倒して、諦めたようにされるがままだ。
「てめえ、弱すぎっぞ」
「・・・仕方ねえだろ。俺は狐だ」
食い込んだ牙の傷跡は深くて、狐はもう立つことが出来ない。
「ったく、俺が食うのによ」
「結果的にてめえが食うんだから、いいじゃねえか」
髭を揺らして笑った気がした。
つくづく変な狐だと思う。
「なんでてめえ、何回も生き返るんだ」
「知らねえ」
狐はそっけない。
傷が痛むのか呼吸が荒くなってきた。
「知らねえけど、俺はどうやら食われたら生き返る。闇から生まれて光に溶けるんだと。誰にも食われずに
 朝を迎えたら俺は消えてなくなっちまう」
「…誰だ、んなことほざいた奴は」
「知らねえ。もう覚えてねえ」
狐は弱々しく目を閉じた。
「・・・もう、食えよ」
それきり動かなくなった。
ゾロは躊躇いなくその屍を食った。















その次の夜――――――

ゾロは草原にぽこんと突き出た大岩の上に座って待っていた。
真ん丸の月が昼間みたいに辺りを照らして、いい感じに風が吹いている。
髭をそよがせてうとうとしていると、嗅ぎ慣れた匂いが近づいてきた。
薄目を開けて、ちらりと見る。
斜め後方から銀色に光る獣が近づいてきた。

「よお」
「おう」

警戒するように頭を下げながら、それでも狐は側までやってきてぺたんと座った。
「なんだ、今日は逃げねえのかよ」
「てめえが追いかけて来ねえからだ。逃げるのは本能だよ」
そんなもんかね、と思いながらゾロは岩から降りた。
狐の身体がそれとわからない程度に小さく揺れて、毛が逆立っている。
「お前よお、毎日食われてんのか」
「おうよ」
「大体俺に、だな」
「お前横取りまでするじゃねーか。俺的にはてめえらみてーなむさ苦しいオスじゃなくて、麗しいメス虎に
 でも食われてーんだが・・・」
ゾロはまるでどっかの誰かみてえなことを言うなと思った。
だがそのどっかの誰かが誰だかは、もうわからない。

「なんで食われても生き返るんだよ」
「だから昨夜も言ったろ、わかんねーって」
「けど、食われんだぞ。痛ーだろ」
「ああ、痛えなあ」
どこか他人事みたいに、狐は嘯く。

「痛えし、怖えしよ。苦しいし。何度ももう、終わりにしてえって思ったよ」
「終わり?」
「俺が誰にも食われずに、死なずに朝を迎えたらそれで終わりだ」
やっぱり、にへんと狐は笑った。
狐のくせに、笑いやがる。
「じゃあてめー、朝まで生き延びたことがねえのか」
ゾロは素直に驚いた。
毎晩毎晩、食われるなんて、いくら自分でも耐えられそうにない。
「俺って美味いらしいんだ。匂いとかよ。だからぜってー見つかって食われる」
「けど痛えんだろ」
「痛え、死ぬほど」

ゾロは考え込んでしまった。
毎日食われて生き返る。
これは死ぬより辛いじゃねえか。

「確かに、お前は美味いがな」
独り言のつもりで呟いたら、狐はなんだか嬉しそうに笑った。
「そうかよ。てめえは割と楽に俺を食ってくれるからな。一番厄介なのは成長期の子虎に獲られることだ。
 狩猟の勉強も兼ねてるから半殺しのまま弄ばれる。痛えし辛いし、早く楽にしてくれって、思うぜあれは」
ゾロは元から虎だった訳ではないから、その辺の生態はよくわかっていない。
だが話を聞いている限り、そりゃひでえなと思った。
「その点てめえはそのでかい口でがぶりと一噛みだからな。案外苦しくねえんだ」
頤を小さく震わせながら狐はゾロの側に来た。
本能で怯えているのに、気丈に振舞っているのだろう。
ゾロはべろんと狐の首裏を舐めた。
全身の毛を逆立たせて、それでも前足で踏ん張って耐えている。
顔やら耳の裏やら胸やら腹やら至る所を舐めまわした。
確かにこの狐は美味い。
匂いを嗅いでいるだけで涎が出てきて止まらないくらいだ。
うっかり噛み付きそうになるのを誤魔化すように、ゾロはひたすら舐めた。
隅々まで舐めた。
硬直して震えていた狐も慣れたのか力を抜いてされるがままになっている。

「・・・俺をぴかぴかにしてどうしようってんだ。どうせ食うんだろうよ」
「まあな、まだ食わねえ」
顔を舐められて、牙が軽く当たった。
狐の尻尾がぴくんと跳ねる。
「もう、食えよ。ひと思いによ」
「そんなに怖えなら、なんでのこのこ俺の側に来たんだよ」
耳の先を舐めると、くすぐったいのかぴるぴる動かす。
「てめえ虎のくせに話せるじゃねえか」
「てめえだって、狐のくせに話が通じるよな」
二匹は顔を見合わせた。
多分表情は分からないがお互いに笑ってる。
「変な虎」
「妙な狐だ」
そんな風にじゃれ合っている間に、東の空が白み始めた。
狐はぴくりと耳を震わせて背伸びするように首を伸ばす。
「そろそろ夜明けだ。俺を食え」
「なんでだ。てめえはもう、終わりにしてえんだろ」
狐はちょっと変な顔をした。
尻尾を2、3度ふらふらと揺らす。
「まあな。けどせっかくだからもう少し、てめえと話してみてえし」
なんだか言い訳みたいに言葉を綴る。
「てめえの側にいれば他の奴に食われる心配はねえから、いつでも終わりにできるしな。まあとりあえず
 今日は食えよ。そしたらまた明日会える」
「会えるのか」
「ああ、会える」
狐はぺたんと地べたに転がって腹裏を見せた。
ゾロはその柔らかい毛を丹念に舐めて、ひと思いにがぶりといった。




まだ半分も食べないうちに朝の白い光が草原を照らし出した。
風に揺れる銀の毛がきらきらと朝陽に光る。

―――――なんだ、金色だったのか
いつも月明かりの下でしか見なかった狐の毛色は、太陽の光を照り返して一瞬金色に輝き、溶けるように消えた。
――――――あ?

骨も肉片も、匂いさえ残さず忽然と狐は消えた。
ゾロは何もない草原をじっと見下ろす。

―――――明日もまた会える・・・
本当に?
本当に、会えるのか?
ゾロはなんだか不安になって、いつまでもそこから動けなかった。












それからは毎晩、狐はゾロの側で過ごした。
そうすれば他の奴に獲られる心配はないし、毎日ご馳走にありつけて飢えることもない。
ゾロにしたら万々歳だが、何故か心は晴れない。
今夜も狐はゾロの懐に潜り込んで、だらしなく腹裏を見せている。
柔らかな毛を撫でて寄せて、隅々まで舐めてやるのが日課になっていた。

そして夜通し他愛無いことを話して過ごす。
お互いに記憶があやふやだからそう多くは語らない。
それでも思い出したことだけぽつりぽつりと話し、もう一方はただ頷いて聞いていた。
話すことがなくなっても、なんとなく側にいた。
夜が明けるまで、側にいる。
狐はどこもかしこも美味い。
匂いもいいし血だって甘い。
腹が満ちて満足なはずなのに、狐を食ってしまった後は虚しくてやるせなくて、夜が明けてもぼんやりと
してしまうのだ。
ゾロは、元は人間の筈なのに、その心の内をなんと呼ぶのか知らない。




ゾロは熱い陽射しを避けて木陰でうとうとと居眠りをしている。
薄目を開けると、すかんと晴れた青い空に白い雲が浮かんで見えた。
目の前に広がる草原は地の果てまでも続いている。

――――――あの狐は金色だった
月明かりの下では銀色に見えたけど、本当は金色だ。
なら銀に見えるあの瞳は、本当は何色だろう。

他愛ないことを考えて、髭を動かす。
狐のことを考えていると、なぜか胸がぽわぽわして気持ちがいい。
いつも夜が明ける前に食べてしまうから、あの日以来、日の光に照らされた狐の姿を見ていない。
あの狐が昼間もいたら、綺麗だろうなとふと思った。
ふさふさの尻尾を揺らして、青い草原の海を狐が駆けるのだ。
逃げ回るのではなく、二人並んで走るのだ。
ゾロは目を閉じて想像してみた。
陽の光を受けて、輝く毛並みは金色で、振り向いた瞳は何色だろうか。
白昼夢みたいに鮮やかにそんな光景が脳裏に浮かんで、ゾロは虎なのに一人で笑った。

昼間狐のことを考えていると楽しい。
夜、狐を舐めていると哀しい。

ゾロは説明のつかない自分の気持ちに戸惑っていた。
なるだけ苦痛を与えないように、丁寧に舐めてから思い切りよく噛み千切る。
毎晩そうしているのに、最後に小さく痙攣して息を止める狐の身体が愛しくてたまらない。



「そろそろ夜が明ける・・・食えよ」
いつものように、抑揚のない声で狐が急かす。
けれどゾロは牙を剥けなかった。
「腹、減ってっだろ?」
なんでもない風に聞いてくる狐になんだか腹が立つ。
「・・・食いたくねえ」
「なんで?もう、俺飽きた?」

ゾロはそれには応えないで、ひたすら舐める。
たらたら涎が沸いてくるが、とても食う気にはなれない。

「食わねえの?」
「食いたくねえ」
「でも腹減ってんだろ」
「けど、食いたくねえ」

狐はくんくんとゾロの鼻面に顔を寄せた。
「食わねえで夜が明けると、俺は消えちまうぞ」
「・・・わかんねえだろ」
ゾロが低く吠えた。
風に揺れた草がざわざわとざわめく。
「ほんとに消えるか、わかんねえだろ」
「・・・でも多分、もう会えない」
黙ってしまった二匹の間を青臭い風が吹き抜けていく。

「俺はもう・・・てめえを食えねえ」
ゾロの言葉に、狐は微笑んだ気がした。
寄り添うようにぺたんと座って、東の空を眺める。

「俺ってお日様見たことないんだ」
ぴんと髭を伸ばして空を仰いだ。
「月と反対に出てくるだろ。凄く眩しくて暖かい。一度見たいと思ってたんだ」
ゾロはその口元をべろりと舐める。
「太陽が昇ると、空は真っ青になるんだぜ。この草っ腹は一面緑だ」
「へえ」
「お前、見たことないんだな。どこまでも広がる青と緑だ。すげー綺麗だぞ」
「よくわかんねえけど、いいな」
空がまるで夕焼けみたいに朱に染まった。
地平線から光の帯が広がっていく。




「ああ、綺麗だ」

狐はまっすぐ前を向いてその様を見た。
風に揺れる毛並みが金色に光っている。
細められた瞳は空を映したみたいに青くて深い。

「ああ、綺麗だな」
ゾロは狐を見て言った。


少し首を傾げて狐はゾロを振り返る。


白い光が辺りを包み、金色の狐は光の渦に溶けていった。









それきり――――――







狐は二度と、姿を現すことはなかった。




























めったに雨の降らない草原で、今日もゾロは昼間からまどろむ。

うとうとと、うつつに見る夢の中で、ゾロは狐と草原を駆けている。





青い空の下

どこまでも続く草原を

二匹並んで、駆けていくのだ。





































「おい?」



ぱちりと瞼を開ければ、見慣れたぐる眉が一層眉を顰めて立っている。
咥えた煙草はそのままに、なんとも言えない表情でゾロを見下ろしていた。

「・・・腹、痛えのか?っつうか、どうした」
いつも何かと絡んで悪態を吐いてくる彼らしくない物言い。
ゾロは変な形に固まった筋肉を少しずつ動かして身体を起した。
随分長く眠っていた気がする。
見上げればコックはまだおかしな顔をしている。

額の汗を拭って初めて、ゾロは自分が泣いていることに気がついた。
それもかなり豪快に、頬を濡らしている。

「えーと・・・もしかして脳味噌沸いたか?」
コックの突っ込みも精彩を欠いている。
あんまり有り得ない場面を見たから戸惑っているのだろう。
からかうには格好のネタだが、あまりにゾロの瞳が真摯なので軽口すら叩けない。
ゾロはじっとサンジを見つめた。

腕を伸ばし、その手を掴む。
ぐいと引っ張ればサンジはバランスを崩して呆気なく片膝をついた。

「・・・おい?寝ぼけて…んのか?」
ゾロの視線が外れない。

戸惑うサンジの髪に手を差し込んで、くしゃりと撫でた。
ああ、この色だと思う。
なんだったかは忘れてしまったが、こんな色だったと強く思った。






「お前を失う、夢を見た」

サンジの口が、ぱかんと音がするかと思うほどあっけなく開いて、また閉じた。





サンジの後ろに広がる空はどこまでも青く、海は果てまで続いている。


ゾロは白い喉笛を噛み切る代わりに、その唇にキスをした。







                              END





(2004.10.25)