Falando De Amor
表通りから一筋路地を抜けると、煌々と灯る街灯の数は極端に減り、賑やかな夜の喧騒は俄かに遠いものとなる。
出しっぱなしのゴミ箱からは生ごみが零れ、汚れた壁の染みから饐えた臭いが滲み出るようだ。
酔いが回って覚束ない足元を真っ黒な猫が走りぬけ、転びそうになるのに悪態をつきながら、古ぼけた木の扉を
寄りかかる様に体全体で押す。
途端に、中から緩やかなジャズの音色とざわめきと安い香水とアルコールの匂いと煙草の煙が、わっとばかりに
押し寄せてきた。

「いらっしゃい」
カウンターの置くから、かすかに届く程度に低い声で迎えられる。
酒場の主人は、この界隈にはやや似つかわしくない、どこか品のある優男だ。
上背だけはあるものの、たいして逞しくもない体躯を黒のベストで包み、小さな蝶ネクタイをしている。
海賊崩れのごろつきや賞金稼ぎがたむろする場末の酒場だが、それほど乱れることなく場が仕切られているのは、
主人の見えざる手腕の為かもしれない。

いつもは客を待たせでも一人でこなしているカウンターに、もう一人いた。
マスターよりさらに細く、華奢と言っていいほどに痩せた男が、手際よくグラスを拭いている。
薄暗い店内でも光るように目立つ金髪。
長い前髪で目元はよくわからないが、口に咥えた細長い煙草から立ち上る煙より、白い肌を持っている。
暗いカウンターの中でその肌と髪がぼうと浮き上がるようで、余計目立っていた。

「新入りか?」
スツールに腰掛けながら不躾な視線を送るのに、男は知らぬ顔でグラスを片付けている。
煙草を咥えた口元は笑みの形に歪み、しょぼしょぼ薄い髭の生えた尖った顎が、きかん気のない子どもを思わせる。

「2日前から手伝ってくれてるんですよ」
注文せずとも勝手に出てくる酒を目の前に置いた主人は、陰気な声で応えた。
「見ない顔だな。島のもんじゃねえだろ」
「そうですねえ」
主人はどこか他人事のように相槌を打つ。

奥のテーブルにいる店の女から、嬌声みたいな注文が入った。
途端、金髪は人懐っこい笑顔を浮かべて片手を上げる。
カクテルを作る手並みは鮮やかだった。
シャツの裾を肘まで捲くった白い腕は、薄闇の中で何かの魔法のようにしなやかに動く。
瞬く間に出来上がった、色鮮やかなカクテル2つを恭しい手つきで女に差し出す。

ライトの下に現れた顔はイメージ通り整っていて、よく見ると眉毛が珍しいカタチに巻いている。
金の睫毛の奥で一瞬煌いた瞳は灰色に見えたが、陽の光の下で見たなら青なのかもしれない。
「綺麗な子だね」
思った通りを口にしたが、金髪は相変わらず知らん顔だ。
ここに客がいることに気付いてもいないように。
自分のことを言われていると思わないのかもしれないし、そんなことは言われ慣れているから、気にも止めないのかも
しれない。

「マスター。どう?予定はあるの?」
この店では、まずマスターの了解を得なければならない。
馴染みでもアルバイトでも、それが鉄則だ。
マスターはちらりと金髪に視線を移し、ゆるゆると首を振った。
「残念だが、その気はないようだよ」
「何も言ってないじゃないか」
「雰囲気でわかるでしょう」
こう素っ気無くされると、却ってムキになってしまう。
懐から飲み代以上の有り金を取り出そうとした。
背後で扉が開かれ、外の喧騒とダミ声が入り込んでくる。


「本当か?あの海賊狩りが?」
「ああ、間違いねえ」
声を潜めているつもりだろうが、騒がしい店内にあっても酔っ払いの声は妙に甲高く筒抜けた。
「へえ、驚いたねえ。ぜひ面だけでも拝みてえところだ」
背を丸めて一人飲んでいた貧相な男を、ひょいと猫でも退けるように摘み上げて床に投げ落とすと、酔っ払い達は
どかりと空いた椅子に腰掛けてテーブルを囲んだ。
床に転がされた男は、何事もなかったようにカウンターの隅に場所を移し、新しい酒をマスターから受け取っている。

「まだ若えらしいがな、不敵な面構えだったぜ」
「一目見てわかんなら、変装とかしてねえってことか?」
「してるつもりかもしれねえが・・・三連ピアスはしてっし、腰に刀を三本下げてっからモロばれじゃねえか」
「そりゃあ、偽者かもしれねえぜ。真似の好きな阿呆はどこにでもいるもんだ」
「いーや、あの目つきはただもんじゃねえよ」
「いらっしゃ〜い」
急に華やいだ声が掛けられ、大ジョッキを指の数以上に片手に掴んだ店の女が、力瘤を作りながらテーブルに配りだした。
「おうvお前に会いたくて来たんだよ」
「うふん、うまいこと言ってvでも今、なんだか物騒なお話してなかった?」
「へへ、さすがにいい男の情報には耳が早いな」
「あら、いい男なの?」
「おうさ、元海賊狩りのロロノア・ゾロっつったら、お前だって知ってるだろうが」
女は付け睫毛に縁取られた目をまん丸に見開いて、頬を両手で押さえた。
「ええ〜、ロロノア・ゾロが!来てんの?この島に!」
「おうさ、こいつが見たってんだ」
「いやん、うっそ〜!!どこどこ?私も見たい!」
「ほら見ろ、目の色変えてんじゃねえか」
男たちの失笑を買いながらも、女は興奮を抑え切れないでいる。
「だってー、あの手配書だけ見ててもいー男じゃないv下品なのとか潰れたのとか、手配書の写真ってろくな面
 写ってないのに、ロロノアの手配書は集めてる娘も多いのよねv」
「ほっといたって、どっかで本物に会うんじゃねえか。どうせ狭い街だ」
「ああん、マスター!今日早引けしていい?」
「・・・これこれ」
マスターが陰気な表情を崩さずに額の辺りに手を当てた時、また背後の扉が開いた。

一瞬なだれ込む外の喧騒。
それが止んで店内の低いジャズの音色が響くだけの静かな場所に戻っても、誰も一言も口を利かなかった。
店に入って来た男は、視線だけで周囲を見渡して真っ直ぐカウンターに向かって歩いてきた。
一つだけ空いていた自分の隣の席に腰掛ける。
かちゃりと、腰に差した刀の擦れる音がする。
「酒、なんでもいいが強いやつ」
マスターは小さく頷いてくるりと背中を向けた。
一瞬無防備すぎやしないかと、他人事ながらひやりとしたが、そんな用心は無用なのかと改めて隣に座った男を
横目で窺い見る。

がっしりとした体つきで、そこそこに上背がある。
鼻筋が通って整った横顔に、噛み締めた口元が意固地そうだ。
額にバンダナを巻いているが、頭頂部や襟足から覗く髪は、鮮やかな緑色。
左耳には金のピアスが揺れている。
古ぼけたマントを羽織ってはいるが、腰掛けた足元から三本覗いている。
トレードマークの腹巻はしていないようだが、なるほどこれなら徹底して変装していない本人か、憧れて真似ている
阿呆かのどちらかだろう。
そしてこの眼差し。
殺気も威嚇も感じさせない、穏やかと言っていいほどに静かな色を湛えながら、澄んだ奥底に炎を秘めているかのような
強い力が滲み出ている。
素人目に見ても、確かにこの男は只者ではない。

「うそ・・・本物?」
先ほどまでけたたましく騒いでいた女も声を潜め、口元を手で押さえながらチラチラと視線を送っている。
店中の視線を背中に受けながら、男は知らぬ素振りで目の前に置かれたジョッキを傾けた。
噂の海賊狩りが現れたというのに、声を掛けたり絡んだりする者は一人として出てこない。
男の纏う雰囲気自体に臆したのか、皆遠巻きに様子を窺うだけだ。

男は喉を鳴らし美味そうに飲み干すと、空のジョッキをマスターに差し出した。
入れ替えるように新しいジョッキを渡すと、マスターの隣から手が伸びてつまみを載せた皿が置かれる。
その肘の白さに眼を引かれたように男は顔を上げると、カウンターの中に浮かび上がる金髪に視線を走らせた。
穏やかだった眼差しが、一瞬にして剣呑な光を帯びる。
それが敵意や嫌悪ではなく、まるで獲物を目にした肉食獣のように眇められるのに気付いて、知らぬ間に
鳥肌が立ってしまった。

ここは一つ、傍観者に徹しよう。
懐から取り出しかけた札を握り締めたままだったことに気付いて、そっと奥に仕舞い込む。

男――― 恐らくはロロノア・ゾロは、値踏みするかのように金髪を眺めた。
その不躾な視線にもまるで気付かないように、金髪は他所を向いて他の客のつまみを作っている。
ロロノアは2杯目のジョッキを傾け、出された皿の料理を手で摘まみながら興味をなくしたように食事を始めた。
恐る恐る見守っていた客達も、次第に緊張が解れてきたのか、ぼそぼそと会話を再開させている。
ただし、先ほどまで盛り上がっていた海賊狩りの話題ではなく、お天気とか景気の話ばかりだったが。

店で一番強い酒を立て続けに3杯飲み干し、出された皿も綺麗に平らげると、海賊狩りは音も無く静かに
立ち上がって、懐に手を入れた。

ちらりと視線を上げて、金髪ではなくマスターを見つめながら、僅かに顎をしゃくった。
マスターは肩を竦めて見せて、隣の金髪に視線を移した。
金髪は、自分のときと同じように知らん顔でグラスを拭いている。

「・・・OKのようですね」
マスターでさえやや意外そうに、心持ち目を見開いている。
ロロノアは黙ってカウンターに札を置いた。
酒代とつまみ代だけでは多すぎる額だ。
マスターはそれを受け取ると、隣の金髪に声を掛けた。
「上がっていいよ、お疲れさん」

金髪は無言でグラスを置き、腰からエプロンを外した。










ロロノアと金髪が連れ立って店の外に出てしまってから、ふうと詰めていた息を吐き出すようにぼやいた。
「なんであれでOKなんだ?俺の時とたいして変わらなかったじゃないか」
「だから、雰囲気ですよ。OK出すなんて意外でしたがね」

言ってる側から、店の外が騒がしくなってきた。
物見高な客達が一斉に腰を浮かして、そっと外を窺い見る。
















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