表から見ても立派な豪邸だったが、実際に中に入ると余計広く感じる屋敷だ。
夕方、まだ日が暮れない内でも一人で台所に立っていると、妙に心細い気持ちになる。
広過ぎて静か過ぎる・・・人気のない家。
いかに品の良い調度品で飾られていようとも贅を尽くされていても、ここで暮らす人の息吹が感じられなければ
まるで巨大な棺のようだ。
居間に掲げられた大きな柱時計が、重々しい響きで時を告げる。
その音が鳴り終わるまで無意識に詰めていた息を吐き出して、サンジは包丁を置いた。
こんな寂しい家で一人、ゾロは暮らしている。
サンジが家庭教師としてこの家に来るのは、せいぜい週に2日程度。
一応本業は勉学だし、教師としての必要性がないのに毎日押しかけるのも気が引ける。
実際、時給3千円となると気軽に足を運ぶのも躊躇われるのが現実だ。
出勤すればそれ相応の手当てがすぐに支給される。
それが高額すぎて却って申し訳ない。
それでもサンジとしたら、できることなら毎日ゾロに飯を作ってやりたくて仕方がなかった。
何を作っても美味いすごいと子どものような喜びようで、気持ちよくたいらげてくれる。
まだ数回しか夕食を作ってないが、それでもゾロの嗜好は大体わかった。
こんな日本離れした洋館に住んで彼自身エキゾチックな顔立ちをしているが、本当は和食が好みらしい。
サンジの得意は洋食だったが、これをきっかけに和食の道も究めようかと思い始めてきた。
図書館で和食の本を借り、来週は何を作ろうかと献立をあれこれ考えるのが楽しみで、友人たちには付き合いが
悪くなったとボヤかれている。
それでも今はいい。
可愛いレディとの合コンよりも、可愛いゾロに美味い飯を食わせてやりたい。
兄弟のいないサンジにとって、ゾロには弟のような親しみを感じている。
「いい匂いだな」
はっとしてお玉を持ったまま振り返った。
呼ばない先に、ゾロが台所に下りてきている。
「お、悪い。そんな時間か」
「いや、俺が早いんですよ。なんかいい匂いがするから腹減ってきて・・・」
「そうかそうか。まあ座れ」
ゾロはスリッパ履きでありながら歩く時足音を立てないので、時折ぎょっとすることがある。
子どもの頃から武道を習っているとのことで、その癖がついているのだと聞いてはいるが、そうでなくても閑散とした
家の中でいきなりゾロに出くわすのは、正直心臓に悪い時もある。
「ご飯もたくさん炊いてあるからな。腹いっぱい食え」
サンジが初めて夕食を作った日、食が進んでご飯が足らなくなったことがあった。
どうやらゾロは白米が大好きらしいと気付いて、それからやや多いくらいの量を炊いている。
「お前、米料理とかも好きなのか。米を使ったお菓子とかさ」
「それはどうかな。けど酒は好きだぜ」
「ブブー、酒はご法度。不良高校生め」
今どき酒を飲む高校生を簡単に不良とは呼ばないだろうが、サンジとしては正しき道に導くのが先輩の役目だと思っている。
サンジ自身、煙草歴を問われては返す言葉もない。
「お前が20歳になったら、一緒に酒を飲んでやるよ」
いただきますと手を合わせるゾロの前に座って、サンジは灰皿を引き寄せながら頬杖を着いた。
ゾロは箸を持ったまま、じっと正面から意味ありげに見つめてくる。
「・・・なんだ?」
「一緒にって、20歳になるまでいてくれんの?」
反射的に「しまった」と思ってしまった。
サンジの役目はあくまで、シゲさんの代わりの家政婦がやってくるまでの繋ぎだ。
ゾロが大学を受験するのをサポートするでも、合格発表を喜んでやる立場でもない。
住み込みの家政婦が見つかれば明日にでもお役御免の浮き草のような身の上で、20歳になったらなんて言う資格も
ないくせについ軽口を叩いてしまった。
「・・・お前が20歳になって、そん時俺のことを覚えててくれたら、一緒に飲もうぜ」
「覚えてるに決まってんだろ」
珍しくむっとしたような顔で、やや口元を尖らせ気味に応える。
サンジは煙草を噛んだまま、にやっと笑ってゾロの頭を撫でた。
「おうおう、やっぱ餌付けすると懐くもんだなあ」
「うっせ」
さして嫌がる風でもなく、サンジに頭を撫でられる状態でゾロは食事を始めた。
ガツガツと勢いよく食べるが、決して行儀の悪い食べ方ではない。
放任されているのに躾の良い態度が、一層サンジのゾロへの同情を増幅させている。
「この味噌汁、美味い」
「お、じゃこ出汁だ。わかるか」
食事の邪魔にならないように煙草を揉み消して、サンジは肘を突いたまま身を乗り出した。
「ああ、お前に朝も味噌汁飲ませてやりたいなあ」
ゾロにきちんと朝食を食べさせることが、サンジの目下の願いだ。
なんとか口実をつけてこの屋敷に泊まり込むか、早朝偶然を装って入り込むかなどと頭の中で計画まで立ててしまって
いたりする。
「先生、マジで俺に味噌汁飲ませてくれる?」
壮大な計画にうっかりトリップしていたから、ゾロの言葉に反応が遅れた。
「え、あ?何?」
「だから。俺に朝飯食わせてくれる?」
お代わりの茶碗を差し出しながら、いつもの生真面目な表情でこちらを見ている。
「ああ。できるもんなら食わせたい。つか、作りてえ」
もう家庭教師なんてどうでもいいから、この可愛いゾロに毎日三度、腹いっぱい飯を食わせてやりたいよ。
ゾロはしばし箸を止めて考える仕種をし、意を決したように顔を上げた。
「じゃ、俺から母に頼んでもいいかな」
「え、頼んでくれんの?」
これではどちらが依頼者だかわからない。
「母も遠慮してるってのがあると思うし。先生がいいって言ってくれるなら、俺も嬉しいし」
「そうだな、お前から口利いてくれるか」
自分から進んで住み込みを申し出るのは、客観的に見て胡散臭いと思う。
なんせ、広い家といえども、あの美しい奥様が暮らしている屋敷に大学生が泊まりこむなんて、不埒な目的があると
思われてもおかしくない。
「よかった」
ゾロは、ほかほかご飯の湯気の向こうで無邪気に笑った。
思い立ったが吉日ということなのか、ゾロは早速実行に移したらしい。
翌週にはシゲさんが時間延長してサンジを待ち受け、契約の変更手続きを行ってくれた。
「元はといえば私の都合で、サンジ先生には本当に申し訳ないんですけど・・・」
「いえ、俺でお役に立てるかどうかわかりませんが、よろしくお願いします」
家庭教師の時とは時給など変わってくるが、それでも破格のバイト料であることには変わりない。
一応一ヶ月の期間を目安として契約し、これから寝泊りする部屋に案内された。
ゾロの部屋の隣。
客間に泊めて貰えるのは嬉しいが、一体どんなお客様だよと内心で突っ込まずにはいられない、豪奢な部屋だ。
「マジで、ここ1人で使っていいんですか?」
京間のアパート暮らししかして来なかったサンジにとって、高級ホテルにでも泊まるような感覚だ。
「ええ勿論お1人で。くれぐれも節度を守ってくださいませね」
シゲさんにいらぬ誤解を与えたと、サンジは慌てて言い繕った。
「勿論です!いやーこんな広い立派な部屋に入ったことも初めてなんで、ビビったんですよ。いやほんと」
シゲさんから見たら、まだまだ分別のつかない若造のサンジだから用心されるのも無理はないと思う。
「ここ2週間で、サンジ先生の人となりは私も充分理解したつもりです。信用しておりますよ」
そう言われると余計に緊張するものだ。
サンジは畏まって頷いた。
学校から帰宅したゾロは、鞄を下ろすのも忘れて2階に駆け上がってきた。
「先生、今日から泊まってくれるんですか?」
「おうゾロ、おかえり」
ゾロの頬はまるで少年のように紅潮している。
自称「男嫌い」のサンジだが、ここまで素直に懐かれるとさすがに悪い気はしない。
「これから四六時中一緒だな。嫌だっつってもしっかり面倒見るぞ」
「お手柔らかにどうぞ」
おどけながらも、ゾロは心底嬉しそうだ。
勿論食事と言う餌があるからだろうが、自分の存在がこんな風に喜ばれるのは滅多にないことだし正直嬉しい。
「とにかく着替えて来い。おやつ作ってあるぞ」
「はい」
息せき切って隣の部屋に駆け込むゾロを、壁を隔てた場所で見送ってなんとも不思議な感じがした。
今日からここに住むのだ。
ゾロの隣に。
住み込みの契約を交わした後も、サンジはアパートを解約したりはしなかった。
あくまで、正式な家政婦が手配されるまでの“繋ぎ”のような契約なのだから、ロロノア邸には毎日泊まりに来る程度の
気構えでいるつもりだ。
時間を気にして帰宅する必要もなくなったから、なんとなく気持ち的にもゆとりがある。
先に風呂から上がると、夜食に出した食器を下げるためゾロの部屋に向かった。
軽くノックして部屋に入る。
「どうだ調子は」
「まあまあ、ですよ」
ゾロは回転椅子をくるりと回して振り向いた。
「元々頭いいみたいだから、別に勉強なんざしなくても良さそうなのにな」
「・・・先生がそれ言うんすか」
苦笑するゾロの、綺麗に渦巻いた旋毛をぼんやり眺めながら無意識に煙草を取り出した。
火を点けそうになって我に返る。
大事な受験生の部屋を、煙草臭くする訳には行かない。
「塾とかには行ってねえの?」
「小学校ん時は行ってましたけど、中学から家庭教師に切り替えたんですよ」
「え、俺の前にも来てたのか?」
それはそうだろうが、何故か意外だった。
「家政婦を兼ねた募集は今回だけです。それまでは純粋に勉強教えてもらってたんで」
「ふ〜んそう・・・」
なんとなく面白くなくて、サンジはこのまま煙草吸っちゃおうかなあなんて思った。
料理の腕はともかく、家庭教師としての能力ははっきり言って自分には皆無だと自覚している。
だが口惜しい。
理不尽だとわかっているが、ちょっとだけ口惜しい。
「もしかして・・・家庭教師は綺麗なお姉様〜vとか、そんなんじゃねえだろうな」
「そうでしたよ」
さらっと返されて、サンジは反射的にいきり立った。
「あんだとお?綺麗な上に頭もいい、ナイスバディなお姉様だったのか?!」
「論点はそこじゃないと思いますが、まあそうでしたね」
くそおおおとサンジは拳を作って小さく吼えた。
「ああ、憧れのカテキョーのお姉様。あんなことやらこーんなことまで、大事な大事なお勉強を手取り足取り・・・っか――!」
妄想に萌え走るサンジを、ゾロは呆れたように見返した。
「先生、もしかして女好き?」
「おおよ、俺は世の中のすべてのレディのために存在している!」
「へえ・・・まあいいけど」
ゾロはブツブツ言いながら、抽斗を開けた。
「手取り足取り、色々教えてもらったよ」
綺麗に整頓された抽斗の中で、なぜか手帳や文房具の横に銀色の手錠があった。
「これも置き土産」
「へ?なんで?」
ゾロが取り出して差し出すのを、しげしげと見た。
「これオモチャ?もしかして、お前脱走とかするから繋げられてたとか」
「繋がれたがるのは、もっぱら先生の方だったなあ」
そう言いながら、ゾロはカシャンとサンジの手首に手錠を嵌めた。
「あ、細身だけど先生の手首にも合うね」
「ほんとだなって、違うだろっ」
サンジは反射的に手首を引いたが、素早くもう片方の手にも嵌められた。
「ほら、こんな感じ」
「え、本格っぽい」
「でも色がね、キンピカして安っぽいでしょ。もうちょっと鈍い色のがいいなあ」
言いながら、手錠をサンジの頭上へと引っ張る。
「おいおいマジかよ」
この時は、サンジはまだ笑っていた。
冗談だと思っていたから。
引き上げられた先に、柱から突き出た釘があった。
こんなところに釘が出て、危ねえなあなんて思っている間に、その釘に鎖の部分が引っ掛けられる。
「え?なんか丁度じゃね?」
「丁度じゃねえよ。それ用だよ」
へえそう、と相槌を打つ間もなく、サンジは自分の腕の間から顔を出す。
「それ用って・・・え?」
ゾロは抽斗からもう一つ手錠を取り出した。
「こっちは輪っかが太いだろ。だから―――」
示されるまま視線を下ろせば、自分の足首の、靴下の上からそれが嵌められるのを見てしまった。
「足でもOK」
もう片方は、サンジが座っている椅子の足に掛けられる。
「え?え?え?」
「両足掛けちゃうと不便だからね」
不便?何が?
「んじゃ先生。先生からも、色々教えてもらおうかな」
ゾロは背凭れに腕を掛けると、サンジを見返してにやりと笑った。
