空を覆うような分厚い雲が、月影をくっきりと浮かび上がらせている。
明日は雨かなと思案を巡らし、明日じゃなくてもう今日かと一人で頷いた。
雨の日の夜明けは遅い。
昼近くまでゆっくりと寝て、それでも雨が止まぬなら、サンジを相手に碁でも打つか。
きつねの分際で随分と物覚えが速いサンジは、人間が多い町に最初はやや怯んだものの、すぐに人の
暮らしに馴染んだ。
小さい身体でテキパキと働き、手際もいいから家の中のことはすぐに全部任せられるほどになる。
何より作る飯が美味い。
食えればなんだっていいと思っていたゾロでさえ、また食いたい飯はまだかと思う程に味を覚えた。
最近は外で出される飯がまずいとさえ感じる程に、舌が肥えてしまった。
これはこれで弱ったものだ。
サンジのことを考えると自然とにやけてくる口元を引き締めて、ゾロはわざとしかめっ面を作りながら
闇夜を歩く。
千両屋での仕事は、思いの外早く終わった。
新しく雇った女中の挙動が不審で、押し込みの手引きでもしているのではと疑った主人に頼まれ裏口を
張っていたものだが、店の周りをうろつく怪しい奴を捕らえて見れば、数年前に出奔した千両屋の倅だった。
大見得を切って家を飛び出した手前、戻るに戻れず、知り合いを先に女中として潜り込ませて実家の様子を
探っていたとは、なんともみっともない話だ。
だが不肖の息子とは言え、千両屋にとってはやはり大事な跡取り。
心を入れ換え精進しますと泣きながら土下座して詫びを入れる息子に年老いた両親も絆されて、最後は
笑顔の内に大団円となった。
めでたいことだとゾロへの給金も弾み、懐は別の意味でほくほくになっている。
―――サンジに、ちいとましな着物でも誂えてやるか
いつも地味な色目の古着しか着ていないが、あの容姿に髪の色などを思えば、もっと鮮やかな生地の方が
良く似合うだろう。
誰が見るわけでもないのが、綺麗なナリをしたサンジを横にはべらせて酒を飲むとまた美味かろう。
別に衆道の気はないが、見目に麗しい美童を愛でる分には罪がない。
そう自分で言い訳して、ゾロはふと肩を竦めた。
ついこの間まで、あぶく銭はすべて酒に消えていたのに。
自分以外の誰かの為に金を使うなど初めてのことかもしれないと、自嘲する。
塀の上を猫が足音も立てず通り過ぎるのを目の端で追って、ゾロはそっと裏木戸の左下辺りを蹴った。
こうすると、うまい具合に心張棒が外れるのだ。
この家を借りてからすぐに見つけた裏の手だが、サンジが知ると無用心だと怒るだろう。
だが、折角寝入っただろうサンジを起こすのも可愛そうだ。
きちんと戸締りをし直してから、気配を殺してそっと庭を横切る。
内鍵だけは己では外せないかと思いついて、舌打ちした。
結局はサンジを起こすことになる。
まあ縁側で寝てもいいとか思いながら、小窓から台所を覗いてぎょっとした。
開け放した襖の向こうに見知らぬ男が眠っている。
布団から手足がはみ出しているから、大人の男なのは間違いがない。
だが、夜目にも光る髪はサンジと同じもの。
―――同胞でも泊まりに来たか?
訝りながら引き戸に手をかけると、難なく開いた。
どうやら鍵を掛け忘れたらしい。
サンジにしては迂闊なことだ。
日ごろの手入れのお陰でガタつくことなく静かに開いた戸口から中に入り、ゾロは草履を脱いで気配を殺したまま
家に上がった。
見知らぬ男は、よく眠っている。
いつもはゾロとサンジが包まって寝ている煎餅布団に、一人背を丸くして寝転がっていた。
横を向き、揃えた手足が同じ方向に投げ出されているのを見ると、まるで犬か猫が昼寝をしている姿のようだ。
だがその手足は白くて長い。
着物の裾からにょっきりと艶かしい足が伸びている様は、しどけない女郎の寝姿を思い起こさせて、ゾロは
こくりと小さく唾を飲み込んだ。
そう言えば、サンジをこの家に引き取ってからというもの、ろくに遊びにも出かけていなかったか。
一人に置いておくのが気掛かりで、野暮な用事は悉く遠ざけてきた。
馴染みの女もさぞかし恨めしく思っていることだろう。
それともとっくに、他の男に乗り換えたか。
白粉臭さも懐かしいと勝手に悦に入り、この部屋には馴染みの匂いしかないと気がついた。
妖も見知らぬ他人の気配もない。
ゾロははてと一人で首を傾げ、再び足元へと視線を落とす。
薄暗い闇の中で、男の姿だけがほのかに浮いて見える。
男の肌の白さも生来のものか。
ならば、やはり人とは思えない。
色褪せた畳の縁に散らばった金糸は、サンジのものより長く艶やかに見える。
あれが育ったらこうなるだろうと容易に想像できて、やはりそうかと納得する。
なにより、月明かりに照らし出される横顔の、長い前髪の間から覗く眉毛がぐるりと丸く形作っているのは
間違いようのない証だ。
――――こいつぁ、サンジか
解せないのは、なぜ成長した姿で転がっているのかということだ。
サンジは妖の気質を受け継いで、少しばかりおかしな幻惑を使う。
否、本人に使う意志がないのに勝手に身に纏わせている妖気と言うべきか。
それは他人が望むものを、己が具現化してみせるというシロモノ。
そうであれば、ゾロの見知らぬこのサンジは、ゾロが望んで見た幻ということになる。
―――俺には、衆道の気はねえ筈だが
ゾロは素直に首を傾げた。
帰る道々、サンジに美童の格好をさせて酌をさせたら美味かろうとか、不埒なことを考えたせいか。
それなら綺麗に着飾ったサンジが寝ているのが道理だろうに、何ゆえこんな小汚い着物姿で勝手に育って
しまったのか。
ある程度育ってれれば食指も動くとか、そんなことを考えた覚えはないのだが―――
ゾロは首を捻りながらも、まあそういうこともあるだろうと、一人云と頷いた。
所詮、妖と一緒に暮らしているのである。
ある程度、訳のわからない事象が起こるも覚悟の上だ。
ゾロは腰の刀だけしまって、着替えもせずに畳にゴロンと寝転がった。
隣には、大きなサンジもどきがすうすうと安らかな寝息を立てている。
いつも小さなサンジを小脇に抱いて寝ていたから、すっかり同衾の習慣がついてしまったが、春を迎えて
これからどんどん温かくなってくる。
もうサンジも、寒さに凍えて自分の布団に潜り込んでくることはないだろう。
そう思うとちと寂しいと思え、その内本当に成長したらこんな風になるのだから、一つ布団どころか同じ
部屋に寝るのも憚られるようになるかと思えば、また侘しい。
狐の子など、すぐに大きくなってしまうだろう。
否、もうすでに大きくなった証がこれか?
詮もないことをちらちらと考えながら、ゾロはいつしか深い眠りに就いていた。
春の柔らかな雨が、芽吹いたばかりの若木を優しく叩く音がする。
目覚めるより先にぐうと腹が鳴って、ゾロは目を開いた。
畳にじかに転がっていたはずなのに、今は布団の上にいる。
羽織を脱がされているから、サンジが難儀して身を整えてくれたのかもしれない。
煎餅布団の程よい重さを心地良く感じながら、ゾロはしばらく惰眠を貪った。
とてとてと、子ども特有の軽い足音が耳に響いた。
短い歩幅が忙しなくも愛らしい。
ゾロは狸寝入りを続けながら、耳を欹てる。
一度戸口で立ち止まってから迷うように足踏みし、そろそろと近付いて来た。
ゾロの枕元に、小さな膝がそっと立てられる。
ほのかに煮物の匂いが鼻を掠めて、またしても腹が鳴りそうになった。
「ゾロ、もう昼だよ」
遠慮がちに、サンジの指が頬に触れる。
ゾロはそろそろと瞼を開けて、視線を流した。
「ああ、朝か」
サンジが、いつもの幼い顔で笑っている。
まったく変わらない、童子のそれだ。
そのことにほっとして、ゾロはゆっくりと起き上がった。
「俺あ適当に寝転がった覚えがあるがな。布団に寝かせてくれたか?」
「もう大変だったよ。何やっても起きないからいいけど、羽織を脱がすのも一苦労だ」
サンジは途端に口元を尖らせて文句を言うと、一人でぷっと吹き出した。
「とは言え俺が目が覚めてからだから、明け方までは畳にじかに転がってたんだ。まだ頬っぺたに跡が
残っているぜ」
くっくと笑うのに、ゾロは無精髭が伸びた顎を撫でてみた。
なるほど、部分的に肌がボコボコしている。
「それより、どうやって昨夜入ったんだ?目え覚ましたら隣に寝てて、魂消たぜ」
「ああ」
ゾロは頬を撫でていた指で今度は顎の下辺りをポリポリと掻き、バツが悪そうに口元を尖らせた。
「俺、戸締りはちゃんとしてたよ、な?」
今いち不安なのか、首を竦めながら聞いてくる。
「表の木戸はちゃんと心張り棒がしてあった」
「なら、なんで入ってこれたんだ?」
「そりゃあまあ・・・」
ちょっと蹴ったらつっかい棒は倒れるなんて言ったら、きっと叱られるだろう。
「適当にだな」
「なんだよそれ」
はっきりしないゾロに焦れて、サンジは丸い目を吊り上げて見せる。
「遅くなっても帰って来たならちゃんと起こしてって前から言ってるだろう。軽いものなら食うもんだって
用意してあったのに」
「・・・すまん」
ゾロは布団の上に正座して、大人しく頭を下げている。
子ども相手に何をやっているかと我ながら滑稽だが、ぷんぷん頬を膨らませて怒るサンジもまた可愛いのだ。
「よく寝ていたから起こすのが可哀相でな」
ゾロがそう言うと、サンジの丸まった眉がぴくりと動いた。
一瞬躊躇ってから、少し声の調子を落とす。
「昨夜、なんか変わったこととか・・・なかったか?」
ゾロは思案するようにし視線を宙に上げたが、すぐに元に戻した。
「いや、特に何も気付かなかったが」
確かに、子どものサンジではないモノが寝ていたが、アレは自分が都合よく夢想した幻だったのだろう。
そう納得して鷹揚に頷けば、サンジはほっとしたように息を吐いた。
「そっか、んじゃ飯にするぞ。顔洗って来いよ」
促されてゾロはのそりと起き上がった。
寝乱れた布団を、小さい身体のまま手早く畳んで、膳の仕度を始める。
そうしながら、サンジは改めて安堵の吐息をついた。
―――よかった、あれは気のせいだったか
今朝目覚めた瞬間、自分の身体が大きかったように感じたのだ。
目覚めて隣にゾロが寝ていると気付いた途端身体が縮んだような気がして、本性のまま寝入ってしまったかと
一人冷や汗を掻いた。
だが、ゾロが何も知らないというのなら大丈夫なのだろう。
「・・・よかった」
サンジはそっと胸を撫で下ろし、遅い朝食を整えた。

