得体の知れない男を家に入れてしまって、サンジは文字通り頭を抱えてしまった。
毎度のことだが、何で俺はこうガードが甘いんだろうか。
と言うか、もしかして俺って、一人暮らしに向いてない?
一人で反省している間にも、男は珍しそうに部屋の中を眺めるとそのままズカズカと上がり込んだ。
「ちょっと待て!靴!」
サンジの叫びに足を止め、首を傾けながら振り返る。
「靴だ、靴!脱げ馬鹿!」
サンジ自ら靴を脱いで見せると、男は大げさに頷いて見せた。
小さな玄関にまで戻って、靴を脱ぐ。
脱いだ靴を見て、サンジはぎょっと眼を剥いた。
光沢からしてただものでない、超高級ブランドの紳士靴。
いや、おかしいだろ。
ステテコに腹巻で、なんで革靴履いてんだよ。
ちゃんと見たら、ロゴのアルファベットが微妙に違ってんじゃねえのか。
サンジは顔を上げて男と靴を交互に見比べた。
すると男は両手を軽く上げて肩を竦めて見せる。
「マーレッシュ」
「あ?なんだって?」
眼を眇めて睨んだら、ふと男のシャツの汚れが目に留まった。
「お前、怪我してんのか?」
胸元に滲んでいるのは、明らかに血の色だ。
しかもまだ新しい、鮮やかな赤。
近付いたサンジの頭を包むように、男が抱き寄せた。
「何をっ・・・」
首だけ仰け反らせるのに、男はちちっと舌を鳴らし指を振る。
やることなすこと外国カブレしたジェスチャーで、妙な状態でありながら笑えてくる。
「え、俺?」
指差され額に手を当てて、ようやくサンジは自分のこめかみから血が流れ落ちていることに気付いた。
先ほどパールに殴られた時に、切れたのだろう。
「なんだ俺か。や・・・大丈夫だから」
男はサンジの頭を抱えたまま、うろうろと首を振っている。
タオルでも探しているのだろうが、自分で取りに行った方が早い。
なのに男はサンジをがっちり捕まえてしまっていて、離してくれない。
男は少し困った顔をして、何を思ったかサンジの前髪を掻き上げると自分のシャツを傷口に押し付けてきた。
「馬鹿野郎、汚れるし汚えっての」
矛盾したことを喚いて、それでも離して貰えないとわかるとサンジは仕方なくその場でしゃがみこんだ。
なんかもう、今日はすごく疲れた。
男のシャツは新品だから、傷口を覆うには不衛生とは言えないだろう。
けど人の服を、たとえジジシャツと言えども血で汚してしまうのには抵抗がある。
がしかし、今のサンジは首一つ自分で動かせないくらいに固定されてしまったのだ。
こうなったら仕方ない。
動けないんだから、このままじっとしているしかない。
サンジは上がりかまちに蹲って、しかも見知らぬ腹巻男の胸に顔を埋める格好で停止してしまった。
どうしてこうなったんだかわからないが、多分男はサンジの血を止めるために一生懸命のようだし、
サンジも血が止まるまではじっとしていた方がいい。
そう思って動きを止めていると、頬にまで触れる男の胸の熱がじんじんと伝わってきた。
随分と分厚い胸板をしているんだなとか、体温高いんじゃねえのとか。
どくどく脈打つ鼓動まで雄々しく響いてきて、それがなぜか心地よくさえ思えてきた。
新品のシャツの匂いと一緒に、最初に感じた独特の体臭が鼻を掠める。
晴れの日に干した布団みたいに香ばしくて、ちょっとスパイシーな匂い。
強いて例えるなら、南国系の匂いだ。
肌も浅黒いし、彫りも深いし。
きっと南方の生まれなんだろう。
じりじりと焼け付くような日差しを受けて、アスファルトから立ち昇る蜃気楼。
そんな風景がなぜか脳裏に浮かんできて、サンジは一人口元を綻ばせながら目を閉じた。
そのまま、うっかり眠ってしまったようだ。
次に目が覚めたとき、二人はそのままの形で玄関に蹲っていた。
「い、て・・・」
壁に凭れた背中が、軋むように痛い。
起き上がろうとして、サンジに覆い被さるようにして熟睡している男を押し退ける。
男はそのままごろんと廊下に横倒しになった。
それでも起きる気配はなく、ぐうぐうと安らかな寝息を立てている。
「・・・なんだってんだ」
男の胸元の血は、茶色に変色して壮絶な汚れになっていた。
自分の額に指で触れて、血が止まっているのを確認する。
そろそろと立ち上がり、一間に併設されたキッチンの小さな冷蔵庫の扉にくっつけた時計を見た。
どうやら玄関で、二人抱き合う形で半日ばかり眠り込んでしまったようだ。
「参ったな」
ちゃんと睡眠を取っておかないと今夜の仕事に差し支えるが、もう一度布団に潜り込んで
眠る気にはなれなかった。
と言うか、この男どうしよう。
取り合えず玄関で寝込む男に毛布だけ掛けてやって、シャワーに向かった。
額の傷は小さなものだったから、絆創膏で間に合った。
顔と身体を洗いさっぱりすると、服を着替えて風呂場から出る。
まだ玄関で熟睡中の男を横目に見ながら、食事を作り始めた。
狭い部屋の中が美味そうな匂いで満たされる頃、それに誘われたかのように男はぱちりと目を覚ました。
そのタイミングの良さが、お前狙ってるんだろうと突っ込みたくなるくらいおかしくて、サンジは
フライ返しを手にしたままクスクスと笑った。
「おはよう、飯食うか?」
言葉が通じている訳でもなさそうだが、ちゃんと伝わったらしい。
男は目をぱちぱち瞬かせた後、起き上がって毛布を横に退け、膝を着いてサンジににじり寄ってきた。
「食うんなら手を洗って来い。洗面所はあっちだ」
そう言って、手を洗うジェスチャーをしてみせる。
男は素直に頷くと立ち上がり、サンジに示された方向に歩き出した。
「言葉は通じなくても、頭は悪くねえみたいだな」
ついでに言うと、話せない訳でもなさそうだ。
あいつはさっき、確かに何か言った。
脚を折って片付けてあった卓袱台を倒し、セッティングする。
それを珍しそうに眺めて、男は畳の上に胡坐をかいた。
「手、洗ったか。よし。つか、そのシャツ汚ねえなあ」
汚したのはサンジだが、汚させたのはこの男だ。
しかし食事の前に血で汚れたシャツを見せられるのも気持ち悪い。
サンジは自分のTシャツの中で、サイズが大きめのものを選んで男に手渡した。
「これに着替えろ。ほんとはそのステテコもどうにかしたいけど・・・さすがにサイズが合わねえよな」
そういえばスウェットの上下があったと、思い出してそれも投げた。
ステテコよりましだろう。
男は全部着替えたが、なぜか上から腹巻を装着している。
「なんだ、腹巻気に入ったのか?」
そう声を掛けると、わかったのか大事そうに両手で撫でて見せた。
反応が素直で、なかなか可愛いらしい。
「ま、いいや。とにかく食えよ」
貧しい暮らしだから、肉類などほとんどない。
傷んでしまった野菜なんかを処分するとか言って、店から勝手に貰って帰って来ている。
それでもサンジの手にかかれば、ちゃんとした食材になるのだ。
米は備蓄してあるから、男の分までたっぷり炊いてやった。
きっとこいつは、大食いタイプだ。
だが男は、サンジに薦められても手を出そうとせず、じっと料理を見つめている。
「なんだ、またかよ」
気付いて自ら箸を取り、食べて見せた。
男の皿から料理を摘まんで、すべて自分で食べて見せる。
すると男は鷹揚に頷き、自分の前に置かれた箸を手に取ると茶碗を持った。
「なんだ、箸使えるんじゃねえか」
食べ方がわからないのかと思っていたが、そうではないらしい。
実に上手に箸を使う。
そして先ほどとは打って変わって、勢いのある食べっぷりで次々と平らげていく。
「お前、俺に毒見させてんだろ。・・・たく、なんて奴だ」
得たいが知れない上に無礼者だが、こうも綺麗に食べてくれると作った者としては気持ちいい。
サンジは途中から自分が食べるのも忘れて、煙草を吸いながら男の食事を眺めていた。
茶碗から飯がなくなると、男は両手でそれを大事そうに抱えて、上目遣いでサンジを見た。
その仕種がなんとも幼く見えて、おかしくなる。
「はいはい、お代わりだな」
そう言って茶碗を受け取り大盛でよそってやると、男の顔はぱっと明るくなった。
―――なんてわかりやすい奴だ
言葉は通じないが、表情は豊かで素直だ。
ごつい顔をしているが、根は純朴で善人なのだろう。
日本に旅行に来たのに何かに騙されるかどうかして、身包み剥がされたのかも知れない。
後で交番に届けに行った方がいいだろうか。
男はすべてを平らげると、パンと行儀良く手を合わせた。
それはまさしく、ご馳走様のポーズではないか。
「お前、ご馳走さんできんの?」
飼い犬が知らないうちに芸を身に着けていたかのように、サンジは驚いてしまった。
「一体お前、名前なんてえの?名前だよ。ネーム」
サンジは卓袱台に肘をついて、自らを指差した。
「俺はサンジっての、サ・ン・ジ。お前は?」
男は自らの鼻の頭に指を乗せ、大きく頷いて見せた。
「ゾロ」
やはり言葉は話せるのだ。
彼の名はゾロ。
それがわかった。
